月輪殿下傅

U.月輪殿下傅
8.九条家
  平安朝を通じ摂関家はたびたび内部抗争を繰り返しては来ましたが常に一系と保っ
 ていましたが、保元の乱による忠通・頼長の争いに端を発し兼実の頃には三家の対立と
 なりました。これが克服されなかったのは何故かと云えば、武家政権の出現と云う日
 本有史以来未曾有な新事態でした。摂関家内部抗争はここに最終的に表面化して行く
 のです。
  武家政治に対し皇家・公卿等を含めた公家は、それぞれの立場・利害・思想に応じて別
 れて行きました。摂関家たる三家にしても然りです。その反応・対応の如何によって政
 治生命に直接響くものとして重要な決断だったことは確かですが。
  兼実兄弟、則ち近衛家・松殿家・九条家の対立・分立・抗争の図式はそれらの歴史的新
 体制に併せて出現したものなのです。
  平治の乱以降、平家一門は清盛を中心として政界進出を果たしました。乱後三年の
 応保二年の摂関家では長兄基実は二十歳で関白右大臣、次兄基房は十九で右大臣、そ
 して兼実は十四歳にして二位大納言右大将でした。かくして、新興勢力たる平家一門
 と数百年に渡り廟堂を牛耳る摂関家との競争と軋轢が展開していきます。その中で
 兼実は、兄近衛家・松殿家とも競いつつ、もう一方の新興平家の圧力を排し政界に確固
 たる自分の基盤を築かなければならない立場となりました。
  九条家とはと云えば、摂関候補資格者の兼実を中心とし、代表する家族集団特に同母
 兄弟は兼実を恃み協力者として行動します。最も親族の中で支えとなり政界と僧界との
 相互協力をもたらしたのは慈円です。
  次に外威等の側近。注目されるのは良通・良経等の母兼子の父である藤原季行です。
  この舅の息子たちは兼実の耳目となり股肱の臣となって政界と教界ともに活動して
 います。その中で政界ではこの季行の子、定能・親能が注目されます。定能は参議中将
 を経て権大納言に至りました。特に後白河法皇の側近として兼実との連絡にあたり、
 玉葉に頻見する事が出来る人物です。
  また親能は玉葉によれば兼実の男色の相手ともなった人物です。
  教界で最も目を引くのは覚乗です。覚乗は早くより興福寺に入り同寺に竹林院なる
 房を造って竹林房禅師とも呼ばれました。彼は生涯を通じて、出世につけて兼実とそ
 の家族の為に周旋の労を厭わず、特に南都方面での情報収集などを行っています。
  次に良平の母となったのは藤原(六条)頼輔の娘です。六条家は和歌において名家た
 る家柄で、千載・新古今時代の名匠が連ねていますが、同時にこれら六条家の人達は
 兼実邸で開かれる歌会に欠かせない人物でした。特にその中でも兼実の家司として生
 活を日夜たすけた人物として頼輔・基輔の両人は名を逸することは出来ないでしょう。
  そしてこれらの(ほぼ)家臣団的存在よりも重要なのが兼実の子女です。兼実はよき
 後継者を持っていた為に九条家の繁栄はあると云っても過言ではありません。
  兼実はこれらの子女の為に出来る限り配慮を行い、子女もこれに答え。宮廷生活の
 中で、政治上の識者だけに止まらずまた和歌詩文等の文化面でも九条家の名を高めま
 した。
  以上が兼実の肉親及び一門・側近の人々について兼実との結びつきにおける活動の
 一端を垣間見、これを統率した兼実の像に迫りました。
  この求心的な力の傘下に参じてくる宮廷人達、所謂「門下の客」を周辺とする組織
 体系が九条家とその勢力の全体像です。
  しかしながら近衛家・松殿家も同様の体制を持つ組織体でありこれらの組織体の競
 合、それを巡った人々の集散離合が当時の宮廷生活、公家政治の根幹を為していたと
 云っても過言ではないでしょう。

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