月輪殿下傅

U.月輪殿下傅
9.平氏
  六波羅時代を切り開いた平家政権は如何に前公家体制の踏襲と云おうとも、背後に
 ある武力と武断的手段によって公家政権とは画一するものであったのは確かです。
  平清盛は、平治の乱制覇後の翌永暦元年正三位右衛門督、翌二年には早くも参議権
 中納言となって政治の枢機に参ずる地位に立ちました。
  あたかもこの頃は二条帝即位後の三〜四年にあたり、院政は後白河院が行っていま
 したが二条帝は英邁にして院政に反発し親政を行い院と対立をしていました。
  天皇と院とを奉じて平治の乱を勝ち抜いた清盛にとって両方の意を迎えるために意
 を深く用いたのは当然の事でしょう。清盛の妻の妹上西門院の女房小弁殿が院の後宮
 に入り、皇子(後の高倉帝)を生んだのは清盛と後白河院との良いパイプラインとなっ
 たようです。一方の天皇に対しては、押小路東洞院の御所のまわりに平家一門の邸宅
 を構え、朝夕に伺候して敬意を表したのでした。
  やがて清盛は内大臣、太政大臣とすすみ、出家して入道相国として政治の実権を握
 るに至り、二条帝の反発に対し失意を味わった後白河院は清盛の接近を歓迎し院の方
 からも積極的に協調的態度を示していました。
  かくして六波羅時代の前半において清盛が、院・天皇に対して協調的態度を保ち続け
 たと見えますが、それでは公家貴族、特に摂関家に対してはどの様にしていたのか。
  平家の政界進出は官職の占取を伴って行なわれます。そこでは官位官職が生命であり
 平家一門の進出によって公家階級が、限りある官職を奪われた苦痛と被害は云うまで
 もなくその不満と憤怒が鬱積して噴出するのは必然性を伴うものでした。
  承安三年正月六日、平宗盛の子が四歳で従五位下に叙されて人々を驚かせました。
  しかも更に翌四年正月廿四日には五歳で侍従に至り、承安四年十二月十五日の除目
 で摂政基房がその子隆忠の任少将を望んでいたところ、平重盛の子資盛が少将となり
 基房は腹を立てて除目の途中で退席してしまいました。
  承安五年四月廿三日基実の子基通の任中将拝賀の際に、院・建春門院・兼実・皇嘉門院
 八条院と巡って右大将重盛邸にあいさつをしました。
  兼実はこのことを筋違いとして非難し、自分の子供にはこのような真似は絶対させ
 ないと憤慨しています。
  このような平家の勢いはやがて清盛の有名な摂関家領の処分となって端的に現われ
 ます。それは、平治の乱後四年長寛二年四月十日清盛は娘盛子を摂政近衛基実に嫁せ
 しめました。その三年後にして基実は二十四歳の短い生涯を閉じ、清盛としては良い
 パイプラインを失ったわけです。清盛は藤原邦綱の言を聴き基実の相続領のうち、所
 謂殿下渡荘のみを新関白基房に伝えて他は近衛家にとどめ基実未亡人たる白川殿盛子
 の手に委ねてその子たる基通の成長を待つ事となりこの事によっても摂関勢力の失墜
 を自覚させられた一つとなったことは間違い有りません。
  政権の座を保持するため、清盛にとって多少の強引な事柄の進め方は止もう得なか
 った処置でしたが、もう一方では、公家の諸勢力との協調体制を構築することも失わ
 ずにしていました。
  清盛は多くの娘を公家貴族に嫁せしめて結びつきを強めようと努力をしています。
  花山院兼雅・藤原隆房・藤原信隆などを女婿として、また近衛基通にも嫁せしめて
 近衛家との姻戚関係を深め、これらの事からも清盛が柔軟な手段をもって貴族に接近
 してこれを手中にする努力を続けていたのです。
  基実のあとに摂政となった松殿基房に対しても同様な手を用い、女婿兼雅の妹が基
 房に嫁しています。
  近衛・松殿に差し出された手が九条家に及ばないはずもなく、治承元年にも宗盛が
 妹の夫少将藤原隆房の娘を養女として兼実の長男良通に嫁せしめんとしました。
  当然の事ながら背後に清盛がある事を兼実は当惑し、

   欲従之者有堕家之謗、欲□之者有失身之恐、進退惟谷、巳失方略

  と怖れ、出来るだけ婉曲にさけようと、直接諾否の返答を与えずに、良通が皇嘉門
 院の養子となっている処から万事は門院の意向に委ねると、逃げを打ちました。
  しかし清盛は虎視眈々と九条家に狙いを定め、今度は清盛の外孫を皇嘉門院に伺候
 させ直接皇嘉門院に働きかけて御許しを得たのでした。
  平氏を極力さけようとする兼実の警戒心とあくまで九条家を手中にしようと画策す
 る清盛の意欲が直面し最終的には清盛が勝利したのでした。
  政権の維持・発展の為清盛は、手を打つべき時には打ち、出来る限りは穏便に事を運
 ぶ配慮を忘れはしなかったのですが、本来対立すべき競合する二つの勢力・政権の間に
 融和政権が持続される事はありません。
  鬱積した公家貴族の不満はやがて「鹿ヶ谷の陰謀」から始まり治承三年に清盛が表
 面的強調の態度を一掃する政変がおこります。
  清盛は後白河院の数々の行動に対し基房の官職剥奪のほか、太政大臣師長の職を奪
 い流刑に処し、弟・池殿頼盛を含めた四十人の朝官を停止し時の人達を驚かせました。
  個人的衝突に孕まれていた問題が、確固たる国家的な政治問題として発展したこの
 事件により公家政権、特にのその頂点に位置する摂関家の主要人物たる基房や兼実に
 たかなるものをもたらしたかを具体的に記してみましょう。
  第一にこの事件の報告が有ったときに兼実にとって青天の霹靂だったことは云うま
 でもありません、次の治承三年十一月十六日条はクーデターの発端から一日半を経過
 した時点での記録です。

   十六日、庚午、天晴、卯刻、隆職宿禰来、余密召簾前、問世上事、申旨如風聞、件男
   殊有其志、□所対面也、於外人者不可然、凡召仰家中男女、令禁高声雑言等

  と兼実がいかに神経を使って行動していたかは測る事が出来、更に書状をもって基房
 を見舞っています。
  折り返し届いた基房よりの書状には突発的事件が平素の反目を一掃して兄弟の本来の
 情に戻ったようです。兼実はこの消息を読んで、いま一度の面拝を希望したくとも逆に
 自分が基房に会うことで清盛の警戒心を買い、兄基房にも迷惑がかかってしまうので出
 向くことを差し控え、このことを鳥や獣のようで悲しい次第だと書いています。
  基房はこれ以前の玉葉の記述を読む限り、兼実に対して礼節にもとり、温情に欠け
 るライバル意識を出す行為が多かったようで、兼実にも当然の事ながら兄基房に対し
 て不信感を募らせていたと思われます。しかしながら朝儀の第一の人として、また殊
 に摂関家の故実を伝える当時唯一の人として他に代えることの出来ないかけがいのな
 い存在でもあったことね確かな事で、兼実は常々敬意を持って其の指導を仰ごうと努
 めていたのです。
  これらの状況をふまえて、兼実のこの反清盛的行動と誤認される危険などの現実的
 根拠を考えた上で出向くことを辞めた事は兼実の状況判断と現実理解の冷静さが目立
 つと思います。
  さて、この件により現職の関白、太政大臣がいきなり解官されしかも流刑にあった
 のです。武士が、いかに先太政大臣としても天子の政治代行者に対して加え、天下に
 周知の侮辱を兼実自身が

   仰此関白之時、家胎暇瑾職付大□於乱代者天子之位摂□之臣太以無益

  と摂関家の権威失墜を自認しなければならない所以で、保元の乱に継いで摂関家勢
 力の一大転機に数えられるでしょう。
  更にこのクーデターによって後白河院の院政は停止され、鳥羽殿への幽閉などの外
 的事実の確定などがありましたが、その造出した体制は永くは続きませんでした。
  クーデターの翌四年二月安徳帝即位と共に清盛が外威政治を行い、その権威は絶頂
 を迎えましたが、同時に各地からの反平家勢力の運動が展開され天下はまた騒然とし
 て来たのです。
  源頼政の京での挙兵、関東の源頼朝の饗応なとがあり、この新形態に対応する為、
 清盛はクーデターの約一年後治承四年十二月十八日、後白河院に分国を奉り政権を返
 上、それと前後して辞官・配流となっていた人達も順次帰京し、基房も同年十二月十七
 日に召還されています。そして翌治承五年閏二月清盛が薨じた事で事件は解消した結
 果となったのです。
  しかし、摂関家にとってこのクーデターは無血で行なわれてとはいえ、実に「逆乱」
 「大乱」であり途轍もない恥辱だった事は云うまでもありません。
  これらの事に端を発した天下の大乱のなかで兼実は尚一層、平家の勢力不振の兆し
 と共に、平家に対して非協力的・批判的態度をとるようになります。
  それでも兼実はまだ傍観者に過ぎず、当事者でもあり犠牲者でもあった基房にとって
 は生涯癒すことの出来ない傷となりました。
  それは召還の際に出家した事にも推測でき、これによって今後の松殿家の政治的展
 望の一切を己の息子師家に預け執念に似た行動をとるようになるのです。

  保元の乱よりの平家の台頭を目の当たりにした兼実は身分的特殊性の絶対視の観念
 を悉く破壊しました。
  それは平安朝の摂関家確立と絶対化が進み「一の原理」「一の信仰」まで押し上げ
 られた概念が虚位・空位を擁す事となり兼実自身が成長する中確立していたこれらの
 考えを破壊して行ったことは云うまでもありません。

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