月輪殿下傅

U.月輪殿下傅
10.源氏(義仲・頼朝)
  治承五年閏二月の清盛の死、後継者宗盛の弱腰、平家の衰退。そして寿永二年七月
 に平家は遂に中央政界より没落し西海へ。それに替わって源(木曽)義仲・行家が都に覇
 を唱えました。
  平家と共に西遷した安徳帝にかわって新主擁立が朝廷第一の問題となり、ひいては
 摂政交代に議も起こりました。
  基房はこの機をとらえ、十二歳の子息師家をこれに擬して東国に興った源頼朝の後
 援を要請しつつ院に奏請しました。頼朝はこれを斥け、院も許可を下しませんでした。
  この時の基房の熱心さは折しも瘧を病んでいた身をもって参内し狂態を演じていた
 事に公卿一般から失笑と政治的顰蹙を買うに過ぎませんでした。
  治承三年の基房失脚以来、執政は基実の子近衛基通でした。基通は後白河院の絶対的
 支持・寵愛を受けていたために基房の要望は期待できるものではありませんでしたが、
 基房の執念を捨てさせるには足りず、近衛基通・松殿師家の叔父であり、年齢・経歴・官職・
 人物・識見で二人の甥を圧倒していた兼実の存在は当然一大敵国のように見えたのでし
 ょう。これより、基房は兼実の讒言を呈し狂惑の域に達していたと思われます。
  平家都落ちの機会を利用できなかった基房は寿永二年十一月の義仲による政権奪取の
 異常事態の下、己の野望を遂げます。しかし政治的手腕にかける義仲は没落していき、
 それに伴う師家の失脚と基房の落胆は必然と云えば必然のこと。
  そして義仲戦死の翌月、近衛基通を摂政に還補し、基房は後白河院にも見限られ兄弟
 一族よりも侮られその結果、松殿家は執政の地位競合圏外に脱落して摂関家より永く除
 外されるに至ったのでした。
  この結果として朝廷には近衛家・九条家両家が対立して政局に向かい、関東に幕府が確
 立されるに至っては公武政権は近衛・九条・武家と三勢力の鼎立の局面を迎えたのでした。
  以上の事を通観すれば、治承三年のクーデターに事を発し摂関家は平家の風下に立つ
 ことを白日の下に晒し、従来摂関家に仕える武士の勢力は今や摂関家の支柱として地位を
 確立したのでした。
  平家より源氏へ。勢力交代期の摂関家の政治的地位がこのようにして新時代へと引き
 継がれて行くのです。

  兼実とその弟慈円はたえず九条家執政を望み機を伺っていましたが、平家の将来を危ぶ
 み義仲を短命を予想し、終始静観して来ました。
  顧みれば仁安元年十八歳の時より右大臣として二十年、その間、朝儀に列するとも傍観
 者の域を出ず平家衰退、義仲滅亡を目の当たりにし、また競合相手の一つである松殿家の
 凋落を見、一旦の栄誉に目をくれなかった事を喜び新たな希望に立向かって行ったのです。
  この道程のなか、姿を現したのが他ならぬ鎌倉幕府創立者源頼朝でした。
  玉葉に「源頼朝」の最初の記載が出るのは治承四年九月三日の事です。
  この年から数えて兼実と頼朝との提携が成ったのは文治元年。それまで六年の歳月を要
 しています。
  治承四年には近衛基通は弱冠二十一歳。松殿家は基房の軽挙によって自らの道を塞ぎ、
 今や摂関家中の最年長者(兼実三十二歳)となりそれに見合うだけの威望と貫禄をもつ兼実
 は基房失脚の後、基通を執政者として支持し続けその為に後白河院としても兼実を執政の
 最適任者として認めざる終えなくなり、三男としての不利な立場は取り除かれ政界におい
 てその地位は次第に明るい光が射し込めて来たのでした。
  言い換えて見れば、初めて九条家が政治の表舞台に脚光を浴びようとしたのです。
  兼実が東国の頼朝に対し関心を持ち始めたのは、九条家にかかる変化が起きかけていた
 治承末年の事でした。
  初めて玉葉に登場する頼朝は「謀叛賊義朝子」としてであり、この頃にはただの反感と
 多少の恐怖感がある程度の存在でした。
  翌五年となると幾分調子に変化が現われます。同四月二十一日条には頼朝が奧州藤原秀衡
 の娘を娶るだろうと云い、頼朝は朝廷に反逆の意志なく君の御敵を伐つ事を望んでいるのに
 謀叛人扱いをされていると云う頼朝の主張に耳を傾けています。
  五月一日条では頼朝に上洛の意有りと云い、八月一日条には頼朝より院へ密奏あり、古
 の如く源平相並で朝家に奉仕する体制に戻し東国を源氏に西国を源氏に任せられたしとの
 申入れがあったとも記しています。
  平家はあくまでも頼朝の打倒を遺言とした清盛の意志を継ぎ、これを拒否しましたが、
 とにはかくにも頼朝が都へ進入すべく表面上穏やかな態度で、京の政局や意向を打診しま
 た楔を打ち込む姿が浮び上ってきます。
  兼実は次第に源平勢力を天秤にかけている事がこの頃の玉葉より読みとれ、頼朝が奉じ
 ている以仁王の令旨の文

   雖平家於順王化之輩者可施神恩、雖源氏於蔑朝威之族者、可蒙冥罰也

  をこれまでの主張の繰り返しと兼実は受取っています。
  以上を見ると治承四年九月から同五年(養和元年)十月までの兼実の風聞だけですが懐く
 頼朝観はかなりの進展が見られます。
  謀叛人子・流人と云う観から発して関東の一勢力と認め、更に平家と並立すべき勢力とし
 て、又遠い板東の地の事件としてだけではなく上洛の可能性若しくは途上にあるという現
 実的な勢力としての認識が注目されます。
  そして義仲の入京いらい、頼朝の朝廷への働きかけは俄然として積極化していき義仲の
 圧迫が同時に加重となっていく中で、兼実の関心が頼朝と義仲との対比に注がれて行くの
 はある種当然のことかも知れません。
  義仲の幼稚な政治的手腕を巧みに利用しつつ柔軟外交を行ない、更には硬軟両様を使い
 分け京都への勢力・発言権の進出を計り、遂に寿永二年十月飛躍的な第一歩を踏み出します。
  朝廷は十月十四日東海・東山諸国の年貢諸社諸寺王臣家の荘園が元の如く領家の命に従う
 べきという官旨を下しました。そしてこの地方の成敗を頼朝に付随させるという頼朝の要
 請に従ったものです。
  頼朝は東国成敗権を朝廷より認可して貰い、その声望を京の政界に高め中央進出の姿勢
 を更に進めて行くのでした。
  この後義仲の戦死などがあり兼実としては頼朝観を更に重みを加えていきますが、危惧
 の念も影がさしたようです。
  以上の六年間、兼実の関心は絶えず頼朝に向き寿永三年の頼朝が中央における軍事的成
 功を足塲にして朝廷に働き始める頃、九条家のみならず近衛家・松殿家もまた頼朝に対し期
 待をし、積極的に食指を動かしつつ備えていたのでした。その為、今や三家に対して頼朝
 の方が選択権を得たかのような様相を呈し摂関家と頼朝は同等な立場でお互いに探り合い
 を始めました。
  が、情報入手においては頼朝の方が遥かに有力な手段を持ち的確な判断の下、兼実を選
 んだのでしょう。
  寿永三年四月七日及び二十四日、頼朝が鶴岡八幡宮の宝前に兼実の名を捧げている事は
 この決定日時の参考になります。兼実も同様に頼朝臣下の在京者一条能保の鎌倉下向など
 で情報収集を行っていました。
  それによって的確な頼朝像の実状に接する努力を行い、六年間にわたる形勢展望と推測
 そして最後に相互の探り合いで遂に兼実と頼朝の接近提携が実現する事となりました。
  兼実にとっては二十年間に渡る万年野党的存在から脱却する布石として、頼朝としては
 公家政治の中枢にその利益代弁者を得たこととなり両者の利害の一致がこの提携を為した
 と云って良いでしょう。
  しかしながら何故、兼実は清盛・義仲の提携の手を拒み頼朝を選んだか、それはとても大
 きな問題です。
  京の政界において自己の地位が向上してくるに連れて声望が重くなり、責任も加重して
 くることは云うまでもありません。
  平安中期より、摂関家が興隆し、それに伴い荘園制度が発展して行きました。この
 荘園制は律令制度の崩壊に伴う公家階級の生活の保障の代償です。
  この荘園制にしても過去の律令制度にしても生活物資を生産する地方と中央の権力
 ・権勢と結ぶのは平和秩序であり、保元の乱以降この綱が絶たれ兼実が政局の第一線に
 躍り出ようとした時に、公家政権のこの難局が一人兼実のみに降りかかり頼朝との提携
 は九条家の野党的立場の脱却と共にこれらの諸問題を解決する為の方法であったことは
 当然の事です。京の政局の第一人者の責務は一刻も早く「諸国路塞」を打開して地方よ
 りの「運上物」を中央に確保する事でした。中央宮廷内の派閥間の抗争など後囘しで行
 うべきもので、東国の所領、寺社領の保証・保護・還付をもって中央政権との外交を求め
 た頼朝の言は東国の年貢確保監督としての実力があり、この事こそが清盛・義仲と異なる
 もので、中央に主力を注ぎ地方に確固たる力を持ち得ない限界でした。
  そして九条家と頼朝との提携の仕上げは義経の頼朝追討令宣下事件です。
  この朝廷の頼朝の対応に対して頼朝が発言力を増し、長兄基実執政以来二十八年、
 治承三年のクーデター以降七年、その間右大臣として執政を目の前にしてただ虚しく
 執政位の推移を見ていた兼実が、頼朝の推挙を得て内覧を命じられ、文治二年三月
 摂政に任じられたのでした。
  公家政権、貴族そして京都の危機の回避の方針は決定されました。頼朝の軍事的
 成功平家の滅亡により一応の戦乱の終焉を迎え、同時に九条家は孤立より脱却し又
 執政の位を得て多年にわたる宿望を遂げたのでした。
  しかし、この時点で既に院・近衛家の反発と云う公家政権内での分裂の兆しが九条
 家の前途に暗い影を落としていたのです。
  この近衛家・九条家の対立は今や単に兄弟間の摂関争いと云う単純的政争ではなく
 対武家政策という新時代の重大問題を巡る争いに転化したのでした。
  更に後白河院の武家への御憤りはそのまま武家の後楯を得ている九条家へとつなが
 り兼実は後白河院が薨ずるまで終生この嫌悪感を抱かれた事を消すことが出来ません
 でした。
  法皇の御理解を得られぬ時に、やはり頼むは国家の宗廟、また氏神でした。これよ
 り兼実は更に信仰の度を深めたのでした。

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