月輪殿下傅
U.月輪殿下傅
11.後白河院
玉葉に多大な部分を割かれ記述をされた後白河院は最も異彩を放ち、この時代の根
幹に関わった第一人者でしょう。
清盛も義仲も頼朝も、時には兼実の近辺に現れ、華々しい活動を残して消えて行っ
た人物達です。少なくとも文字から見れば脇役に過ぎません、しかしながらそれらに
対して院こそは主役の位置を占める「治天の君」です。久寿二年の即位の際には兼実
はまだ七歳。以後建久三年の崩御まで実に三十八年間に渡り乱世を潜り抜け、政治の
衝にいられながら生き拔かれました。院の下、公家政権もまた幾つかの危機を乗り越
えることが出来、生命を維持したのです。
玉葉の起筆から数えて獲麟まで約三十年。この年月こそ政治家兼実が後白河院に親
灸した年月でした。それは同時に武家政治幕開けに伴う戦乱と動揺と不安な三十年で
もむあったわけですが、後白河院は公家政治を代表し、その立役者として直面しこれ
に当ったのです。
玉葉において人の他界に際して、一生を回顧しながら評伝を加えている例は自分自
身の息子良通の他には後白河院と清盛の二人しかいません。
それは後白河院と兼実の交渉の年代が如何に長く、この交渉が如何に重要であった
かが伺うに難くありません。
それは建久三年三月十三日後白河院崩御の事を記した条に
保元以来四十余年治天下、寛仁稟生慈行世、帰依仏教之徳、殆甚於梁武帝、只恨忘延
喜延暦之古風
と後白河院を兼実は評しています。
後白河院の度重なる軽々しい言動が謹厳をモットーとしている兼実には理解しがた
く、目に余り玉葉には、自然と後白河院の非難が頻見します。
・院中有今樣合(公卿以下廿余人云々)
・入夜参上、今日院今樣合令終之日也、又有御遊
・如例有雑遊等
・於北面下搏刮ツ奏雑芸云々
等々であり、ともあれ、この後白河院と兼実との交渉こそ玉葉内での最大の主題と
云っても過言ではなく、最も興味をそそる記述です。後白河院の御習癖を非難する兼実
は同時に後白河院の御心事と御環境を最も理解した第一の知己で有ることは間違い無い
でしょう。
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