月輪殿下傅

U.月輪殿下傅
12.執政
  建久三年後白河院崩御。後鳥羽帝はこの時既に十三歳に達しており摂政の兼実も執
 政の座につき七年の歳月を過ごしていました。
  これより先、建久元年正月四日には娘任子の入内を果たし、同四月には中宮に列せ
  られ兼実の弟兼房は太政大臣、次男良経は左大将権大納言に至り、九条家は前途洋々
 たる気運でした。
  兼実の執政(文治二年−建久七年)の十一年間において建久三年は大きな意味と転機
 をもたらしました。後白河院崩御は政界の空気を一新し、絶えて等しい天皇親政を復
 活し頼通以来絶えていた外威政治を目指したのは次の歌からも察せられます。

  これそこのおもひしことく世をはへん
              秋の宮にて月をみるかな  (雲葉和歌集賀)

                          後法住寺入道先関白入道

  この一首は兼実の人生の頂点に達した事を象徴するものとしてかの御堂関白道長公
 が詠んだとされる「この世をば」に比べても良いでしょう。
  こうして九条家は政界の第一線を占めその羽翼を宮廷内外にのばし宿望を達すべき
 際会したのです。この九条家の最も晴れがましい事業としては南都復興は欠かせませ
 ん。清盛による南都破壊の直後より朝廷と藤原氏の一日も忘れることの出来ない事業
 の一つでしたが、その後の戦乱により妨げられていました。しかしながらここに来て
 の朝廷の安定、京の治安秩序回復、武家幕府の制覇と相まって京・鎌倉両政権が手を
 携えて復興を行ったのです。
  南都復興事業の完成は、九条家公武協調政策に咲いた花とも云うべきものであり、
 九条家の最高潮期を意味します。
  しかし頼朝は二度の上洛で多少の変化をしていました。権門への憧れか、自分の娘
 を後宮に入れんが為に、兼実の政敵であね丹後局・源通親に接近しやがて通親の利用す
 るところとなって九条家失脚の一因となるのでした。
  この絶頂に達したかに見えた九条家に暗雲が立ちこめ始めたのです。
  兼実が任子の入内に、皇子誕生に外威政治復活の望みを託していたことは先に記述
 したとおりですが、建久六年任子が生んだのは皇女であり甚だ九条家を失望させたの
 でした。
  この兼実が失望の情を噛み締めてている間に、後鳥羽院の第一皇子為仁親王が誕生
 したのです。生母は修明門院在子。通親の養女となり入内していたもので、兼実の失
 望が一層深まるに引き替え通親は外威政治の可能性を高めその為に画策していました。
  彼は近衛家を擁し丹後局と協力し頼朝をも抱き込み完全に兼実包囲網を作り出した
 のです。
  源通親は村上源氏を代表する政治家で、兼実と時を同じくしながら平家政権より
 後鳥羽院の時代に台頭し摂関家分裂を利用して宮廷内に確固たる自分の地盤を築き
 ました。鎌倉時代の村上源氏の繁栄は通親に因るものであり、源平期を通じて公家
 政治家中第一の手腕を持っていたと云っても良いでしょう。
  通親の政治家としての特色は、第一に現実主義者であること。政権への執念、そ
 れのみが通親の不断の目標であり、常に与党に立って落伍することなく政権の推移
 交代においても即座に反応し転身して手段を選ばず的な行動をしました。
  九条家執政の全盛期には表向きは九条家を支持する頼朝に接近して支持を求め、
 他方九条家と相反する近衛家との連携を強める努力を欠かさず、万全の策を擁して
 いました。
  最終的には通親の策にはまり建久七年兼実は執政の座をおわれ、九条家一門では
 内大臣として良経が残るのみでした。
  兼実は後鳥羽帝の即位により、宿願だった外威としての政をとる事を後一歩とし
 ながら運命に裏切られ、後鳥羽帝親政下の四年間の執政わ最後に政治の舞台を去る
 のでした。

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