13.晩年 摂政関白として後鳥羽帝を助けた兼実と九条家は、天皇の背後に張り巡らされて いた、村上源氏(土御門氏)と高倉家によって敗退を喫し、建久七年の政変によって 兼実の政治生命も幕を閉じました。 そして通親は後鳥羽院の後院の別当となり、また新帝土御門帝の外威として権勢 を欲しいままとして天皇・院ともに「我が掌中」と評され絶大な権威は執政を近衛家 に譲ってはいるものの「源博陸」と呼ばれ摂関にさえ擬されていました。 関東からすれば京の政界を一人にて切回す通親に頼朝は不安を覚え、建久七年の 政変を遺憾として兼実・慈円兄弟に連絡を取っています。 しかし正治元年正月の頼朝の突然の死。この事に兼実は最後の希望の光を失った と云っても良いでしょう。 九条家の将来に気を使おうにも政界においてなんら手がかりを失った兼実は失意 のうちに籠居せざるおえませんでした。 しかし譲位によって自由の位を確保した後鳥羽院は、独自の方針を打ち立てたく 次第に通親と対立関係を有するようになり、また近衛・九条両家にも出来るだけ公平 な態度で向かい両者の緊張を解くために努力をしていました。 正治元年六月の除目には九条良経を左大臣、近衛家実を右大臣に任じられたはそ の一端です。 建久七年の政変以降正治二年の五年間に渡って籠居していた良経は同年二月、久々 に出仕し院に拝謁し、このことが九条家の政界復帰の前触れと成りました。 ましてや建仁二年十月二十一日の源通親の急死によりさらに局面は進められその 死後二ヶ月後鳥羽院が良経を摂政に任じた事は九条家勢威完全復活を印象づけたの です。 建仁二年よ五年に渡る良経の摂政、また兼実の五男良平十八歳にて元服。先に 建久四年六月には良経に待望の長男道家誕生を見たことはどれだけ大きな喜びだっ たかは想像に難くない。 しかし、今や五十の春秋を送った兼実にとって長年起居を共にした肉親達と相次 いで別れる時が迫ってきました。 建久四年十一月八日、宜秋門院の祖母則ち兼実夫人の母儀の喪に逢い、建仁元年 十二月十日、最愛の妻の入滅を迎えます。 それにより翌建仁二年正月二十七日、夫人の四十九日に五十四歳で出家を遂げ円証 と称しました。この出家に際して戒師には源空が、剃手には子・良円があたりました。 元久元年四月、兼実五十六歳。身後の計を定めて所領荘園や所管の寺社についての 詳細な譲渡法を定めて譲状を作成して、事柄についても幾つかの配慮が見られます。 ・永所奉附属宜秋門院也 ・道家若殊非其器量又短命早世者、被仰合摂政可被相伝可継之仁也 ・摂政若奉後女院者摂政領知之後可□□(被相カ)伝道家 ・女院若令後摂政給直可被相伝道家也 これらの事を定め後塵を汚さぬよう腐心していた事が解ります。 晩年の哀愁のうちにも次男良経の執政に九条家の将来を託しつつ静に隠居生活を送 っていた兼実ですが、元久三年三月七日良経の暗殺の風聞が立つほどの変死を遂げ、 この突発事に兼実は改めて現実世界へ戻り孫の道家の教育に配慮するのでした。 年老いて子に先立たれた悲しみと、九条家と幼い道家の前途をについて懸念とが、 兼実の健康に惡影響を及ぼしていたようですが、更に加えて帰依していた源空の迫害 がことさら心身に衝撃を与えたようです。 そして兼実の終焉、その後の営みについて等は史料が乏しく明月記に片鱗をとど めているに過ぎず、その詳細は知るよしもありません。 明月記承元元年五月五日の条に 臨昏巷説云、入道殿下(兼実)御入滅云々、日来不知御増之由、甚以非慟、須馳参、近 日時儀更難測□被処禁忌者於事可失便宜懲前事□只如木石 とあり、仲資王記同日の条には 九条禅定殿下薨去去々、春秋五十九歟、日来御不食云々 と伝えるのみです。 以上、これによって兼実の略伝を終えたいと思います。
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