花園天皇宸記と人物評伝
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1.九条師教
元応二(1320)年六月七日の条
(上略)申剋許伝聞、九条前摂政薨去云〃、公時罷向之由令申之間、訪禅閤并右府、此人大才人也、於今者摂家無人歟、此摂政政富漢才之上有賢名、廉直人云〃、誠可惜者也、可還補之由、此間度々雖有仰、遂以辞退云〃

   忠教┬師教─道教─経教
     └房実

 父は九条忠教、母は西園寺公相の娘。文永十(1273)年生まれ。正安元(1299)年より「一上」となり、正安三(1301)年に富仁親王(後の花園天皇)が立太子されると皇太子傅に任じられる。後二条天皇の関白、花園天皇の摂政などを歴任。延慶元(1308)年十一月に摂政を辞職。その後、没するまで還補される事を辞退し続けた。法号は浄土寺殿、または巳心院殿。

2.菅原在兼
元亨元(1321)年六月廿三日の条
(上略)今日在兼卿薨逝云〃、文之衰微、道之陵夷、歎而有余、嗟乎命哉〃〃、但齢及七旬、官至八座、一門之長者、五代之帝師也、栄分満足、無所恨者歟[裏書有]

     ┌是綱・・・・・・為長
     ├在良
   定義┴輔方─是基─在茂─在高─淳高─良頼─在嗣─在兼─在経─家高

 当時の菅原家は道真の五世の孫にあたる定義から是綱・在良・輔方の三子の子孫が互いに文章博士など、顕位に昇っている。
 在兼はその内、三男・輔方の流れをくみ父は菅原在嗣、母は不明。氏長者を継いだ初名は在緒と云う。中務少輔、左大弁、式部大輔、勘解由長官などを歴任して後、民部卿、刑部卿などの高官に就き、また博士家の本業である大学頭には正応三(1301)年より、文章博士には乾元元(1302)年でなる。またこの年従三位として公卿に列した。更には正二位に叙され参議となった。伏見から後伏見・後二条・花園・後醍醐と五代に渡って侍読を務め特に経書の進講を担当する。
 また花園天皇在位中の応長(1311-12)の年号は在兼の勘申による。
 ※ちなみに九条道家のブレーンとして有名な為長は是綱の流れをくむ。

3.花山院師信
元亨元(1321)年十一月一日の条
今暁内大臣藤原師信朝臣薨去云〃、和漢之才不恥於時輩、可謂良佐、尤可惜〃〃、(下略)

   忠経─師継┬頼兼─師藤
        └師信┬兼信
           ├師賢
           └賢季

 父は花山院師継、母は家女房(大江季光の娘)。健治元(1275)年生まれ。正応四(1291)年参議に任じられ、権中納言、権大納言となって後、嘉元二(1304)年からは後宇多上皇の伝奏となる。第二期後宇多院政の際も伝奏を勤め、元応元(1319)年に内大臣。その二年後の在職のままの死は花園天皇にも悼まれた。後花山院内大臣と号す。
 なお、子の師賢は後醍醐天皇の近臣として討幕運動に参加した。

4.西園寺実兼
元亨二(1322)年九月十日の条
(上略)入道相国酉始事切了云〃、尤以驚歎、此相国者朝之元老、国之良弼也、仕自後嵯峨之朝、為数代之重臣、頃年以來雖遁跡於桑門、猶関東執奏不変、又於重事者預顧問、上皇誠有外祖之義、於身又為曾祖之義、旁以不可不歎、何況国之柱石也、文才雖少、久仕数代之朝、閲天下之義理多矣、為朝為身悲歎尤深者也、(下略)裏書有り

   公経┬実氏─公相─実兼─公衡
     └実雄(→洞院家となる)

 父は西園寺公相、母は家女房(中原師朝の娘)。建長元(1249)年生まれ。西園寺家は関東申次役として鎌倉時代の朝廷において重責を担っていた。
文永四(1261)年父・公相が死去、同六(1263)年に祖父・実氏が死没し、関東申次に就く。実兼の娘たちで[金章]子は伏見天皇中宮として、瑛子は亀山天皇准后として、禧子は後醍醐天皇の中宮となり、『宸記』の記す如く(義理ではあるが)後伏見天皇には外祖父、花園天皇自身には曾祖父にあたる。
 正応元(1288)年には従一位に叙され、同四(1291)年には太政大臣に昇ったが翌年辞任。正安元(1299)年家督を息・公衡に譲り出家、法名を空性と称して北山第に隱棲したが正和四(1315)年に公衡が死去した為、再び関東申次役となった。
 持明院統の治世下で権勢を振るった京極為兼とは折り合いが悪く度々衝突している。この実兼には正に善くも悪しくも「朝之元老、国之良弼也」であった。

5.三条公茂
元亨四(1324)年正月十日の条
(上略)前内大臣正二位藤原公茂朝臣薨云〃、(或曰、去夜薨去)、公者入道太政大臣(実重)嫡嗣也、雖無洪才之誉、能練公事、進退有度、年■(1)四十一、尤足哀惜、明後日欲展詩筵、依此事延引、

   実房─公房─実親─公親─実重─公茂─実忠─公忠

 父は三条実重、母は源通成の娘。弘安六(1283)年生まれ。
 永仁四(1296)年に非参議従三位として公卿に列してより、正安三(1301)年参議、乾元元(1302)年権中納言となる。子・実忠も同じく任じられており、二代に渡っての就任についての有識故実の記録が『三槐抄』である。
 嘉元三(1305)年権大納言、文保元(1317)年に内大臣に任じられ、内大臣を文保二(1318)年に辞退している。

6.後宇多法皇
元亨四(1324)年六月廿五日の条
(上略)卯一點太上法皇巳崩御云〃、法皇諱世仁、法名金剛性、亀山院第一皇子、母京極院、(入道左大臣実雄公女)、天性聡敏、博覧経史、巧詩句、亦善隷書、文永中立坊、無何登極、在位十三年、亀山院遊幸無度、内寵多、政事不整、是以貞時代天意、薦先皇於天位、爾以降悲父業之不脩、ト西郊之離宮、事仰鑚脩道義、有令名、遂使正安有遜譲之事、乾元・嘉元之間政理不乱、徳治中遇遊義門院之早世、一旦落飾入仏道、続有後二条院之晏駕、弥厭俗塵深帰釈家、習律義密宗、以西郊大覚寺為栖遅之仙洞、擬寛平法皇坐仁和寺、徳治中、対前大僧正禅助受秘密灌頂、以來密宗之高徳、少比肩者、二品□□親王・道意僧正以下、受法皇之密灌者多矣、当今龍興後再執政柄、晩節政事不斉、政以賄成、惜哉有始無終、元亨元年委託於今上之後、又移仙居於西郊、法皇近臣任官等、或不称叡旨、依此有不和之事云〃、三四年來、脚気之故起居不協、玉躰不和、自■(2)春弥留、入炎節増気、或云、宋醫薦石薬、依是内熱尤甚、尊躰如火云〃、遂以崩御、天下之歎不可敢言、晩節雖不脩、末代之英主也、不可不愛惜矣、去十六日行幸、依満七日廿二日還御、臨獲麟之期行幸、及辰剋還御云〃、或云、行幸以前崩御云〃、後没後法事等不可被行之由有遺詔、人々不可着素服之由、同有遺命云〃、近年禁裏・龍楼不和、法皇御旨在東宮、依之旧臣等懐怖、如踏薄氷云〃、旧院無人頗散々云〃、法皇学雖渉獵内外、鑒百世之智猶所乏也、是以禍萌于数年、叡聡未覚、迄没後免乱難矣、後世之君子資準的、庶慎将来而巳、後聞御終焉令誦五字明給、或云、不分明、然而令持獨鈷給云〃、奉号後宇多院、是遺詔歟

   亀山─後宇多┬後二条─邦良─康仁
         └後醍醐─後村上

 父は亀山天皇。母は洞院実雄の娘・京極院■(3)子。文永四(1267)年生まれ。
 文永十一(1274)年に登極、弘安十(1287)年譲位。在位中は父・亀山上皇が院政を行ない、子の後二条天皇が践祚してからは院政(第一期)を行う。間を挟んで後醍醐天皇の在位中は元亨元(1321)年まで再び院政(第二期)を行った。この院政の伝奏には先に述べた花山院師信もいる。
 愛する遊義門院の早世や自らの皇統を継ぐ後二条天皇が在位中に早世した事によって仏道に深く帰依し、宇多法皇を擬して大覚寺を仙洞御所とした事は後に皇統が大覚寺統と呼ばれる由縁となる。
 相対する持明院統とは荘園争いなどでが問題となり、花園天皇も日記に「晩節政事不斉」と記している。
 当時の天皇家では追号を自ら定める遺詔が多く行なわれており、後宇多天皇も同様に遺詔によって追号を定めている。「後宇多」の遺詔は正に自身の仏教に対する帰依の表れと云えよう。

7.二条(御子左)為藤
元亨四(1324)年七月十 日の条
(上略)民部卿為藤薨、瘧病云〃、或云傷寒、其事記事裏[裏書在り]

   定家─為家─為氏─為世┬為通
              └為藤

 父は二条(御子左)為世、母は賀茂氏久の娘。建治元(1275)年生まれ。
 延慶元(1308)年に参議となり後に正二位中納言となる。父・為世は所謂定家の流れを組む御子左の嫡流であり歌人。父に和歌を学ぶも他流とも親しく後醍醐天皇にも信任を受け「続後拾遺和歌集」の撰を任じられている。
 花園天皇の歌道は京極派で、二条派の歌道とは相容れないものがあったが為藤に関しては『宸記』の裏書に本意を探ろうとしていると賛意をもって記している。
後醍醐天皇が儒教を重んじていた為、儒教の義理を基にして歌道の本意を探る為藤は信任されていた。

8.大炊御門冬氏
元亨四(1324)年八月十六日の条
(上略)入道内大臣藤原冬氏朝臣薨云〃、公者大納言良宗嫡男也、良宗早世後、祖父太政大臣信嗣養為子、昇進之次第不能委記、上表辞職後、籠居偏耽酒色、為長夜飲、因■(2)諸病競起、気力枉弱、両三日病悩霍乱云〃、昨日出家入道、今日薨去云〃、公無才幹之誉、唯伝家業、学和琴、毎宸遊必應其撰、今年大臣多夭亡(下略)

   信嗣─良宗─冬氏┬氏宗
           └冬信┬信忠
              └冬宗

 父は大炊御門良宗、母は源朝氏の娘。弘安四(1281)年生まれ。乾元元(1302)年参議となり権中納言を経て、正和二(1313)年に権大納言、元亨二(1322)年に内大臣に登る。その間、徳治二(1307)年には父良宗が大納言で死去している。
 大炊御門は家業に和琴があり、冬氏も花園天皇が即位の際の管弦の遊びでは和琴を担当している。光福寺殿と号す。

9.綾小路信有
元亨四(1324)年九月十三日の条
(上略)入道前権中納言源信有朝臣、去十日薨去云〃、受累家之業、以歌曲仕朝、先院之旧臣獨残、今忽帰泉、尤可憐、

   時賢─有資─信有┬有時┌敦有─信俊
           └有頼┴成賢

 宇多源氏。父は綾小路有資。正安元年に非参議従三位となり、嘉元三年に刑部卿、延慶二年には参議を歴任し辞退。その後、応長元年に権中納言となる。
 父・有資は後深草・亀山・伏見と三代に渡る天皇の郢曲師範を勤め信有も伏見天皇の師範を勤めた。また和琴・箏・笛など歌曲を以て朝廷に仕えた。

10.花山院冬雅
正中二(1325)年六月七日の条
従三位冬雅薨云〃、年廿一、自一日病悩、忽即世不便也、子息宗雅事、示付俊光卿云〃、老少不定之習可悲〃〃、(下略)

   忠経┬定雅┬通雅
     └師継└長雅─家雅─冬雅─宗雅

 父は花山院家雅、母は藤原俊光の娘。文保元(1317)年非参議従三位として公卿に列し、正中二(1325)年の死去まで同位。なお、子の宗雅は従二位権中納言まで昇っている。

11.一条内経
正中二(1325)年十月二日の条
前関白従一位藤原内経朝臣薨去、公者内大臣内実之長男也、起家嗣絶為関白、而頃年以來■(4)湎于酒、仍早世歟、別無芸能、以譜代之家風、起一代之中絶歟、年三十五、太堪傷嗟、使隆蔭朝臣訪経通卿、有返事、経通今年九歳云〃、二代早世、孤露不便事歟、(下略)

   実経─家経─内実─内経─経通
 父は一条内実、母は一条実経の娘。正応四(1291)年生まれ。五摂家の一つ一条家の嫡男として誕生。嘉元元(1303)年に権中納言となり公卿の一員となる。翌年父・内経が二十九歳の若さで死去するが、徳治元(1306)年には権大納言に任じられてより官位を進め後醍醐天皇が即位した文保二(1318)年には関白となる。
 父が内大臣で死去した事もあり、清華家と同格視されたりもしたが関白になる事によって一条家の没落を防ぎ得たのは幕府の五摂家均衡政策や豊富な所領によるものであろう。

12.京極為兼
元弘二(1332)年三月廿四日の条
(上略)大納言入道、(為兼、法名静覚)、去廿一日薨之由伝聞云〃、彼卿者、右兵衛督為教卿息也、自幼日昵近祖父為家卿、和歌口伝等悉受之上、天性特風骨、抜萃之堪能也、伏見院在坊之時、令好和歌給、仍寓直、龍興之後為蔵人頭、至中納言、以和歌候之、粗至政道之口入、仍有傍輩之讒、関東可被退之由申之、[裏書有]

   定家─為家┬為氏
        ├為教─為兼
        └為相

 父は京極為教、母は三善雅衡の娘。建長六(1254)年の生まれ。
 京極家は先に述べた二条為藤と祖を同じ定家とする御子左家で、歌道を家業とする。父為教が西園寺家に仕えていた事もあり為兼も西園寺家の家司として仕えた。その頃から東宮であった伏見天皇に近侍し、持明院統の歌道の指導者として名を馳せるようになる。また後伏見・花園両天皇の乳父として仕えたことも持明院統で重きをなした由縁の一つであろう。
 正応元(1288)年に蔵人頭、翌年参議、正応(1291)四年には権中納言と順調に出世する様は伏見天皇から如何重用されていたかが伺えるが、西園寺実兼との衝突によって永仁六(1298)年には佐渡に流されている。その後嘉元元(1303)年に召還され応長元(1311)年に伏見院の院宣を受けて撰したのが『玉葉和歌集』であり、京極派和歌集として名高い。
 正和五(1316)年には再び西園寺実兼によって土佐に流される。
 なお、佐渡に流された件に関しては幕府に捕らえられた事もあり、伏見−為兼らが討幕運動を考えていたからではないかと云う説がある。

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