第2章 後鳥羽
○特論 日記

 律令制的天皇から中世的天皇の移行は、11世紀後半より12世紀後半の院政期でほぼ完了し、中世的天皇が成立します。
 この中世的天皇の特色としては、天皇作法の集大成と国家機密化が挙げられるでしょう。後三条・白河期に、天皇の作法を注載した公事書が作成され、王家による公事・朝儀の主導権を握る動きが強くなって行きました。
 これら天皇作法は、院・天皇・摂関家とそれらを取り次ぐ職事・弁官以外は知ることが出来ない秘事とされ、国家機密化となりました。
 しかも院による歴代天皇日記の管理強化が進んだのは「治天の君」である院が、公事執行において主導権を握るもので、これらに関与する王家・摂関家は権威を高めていくのです。
 それではなぜ、摂関家が同様な立場にいられたのでしょうか?

 それは上記のような天皇作法を教育する立場にあった摂関家の人々が書き記した「日記」が作法を確認しうる重要な文書であったからに他なりません。
 ここに、他の公家とは異なる摂関家が誕生します。その摂関家の「日記の家」化は中世的天皇の誕生と同様に院政期に始まり、白河上皇の時に確立すると云って良いでしょう。外威でなくとも摂関の地位を確保した「日記の家」たる摂関家の形成経過は同時に中世的「家」の誕生とも関わり合ってきます。
 ここでは後代、九条兼実・良経・道家の日記が「三代の正記」と称せられた九条家を例にとってみましょう。

 貴族社会にとって如何に先例の宝庫である日記を利用出来るかが、朝儀に精通しているかのバロメータでした。
 「能覚日記」える人(「台記」康治二年五月二五日条)なとが廟堂で重用されたのはその為であり、公事に関わる総ての公家がかくあるべきとの理想でもありました。しかし日記はたやすく入手出来るものではなく、公開もされていませんでした。
 玉葉には約50種類ほどの日記の記事が載っており、兼実自身が朝儀に引勘しているのは実際に40種。
 兼実はこれらの日記を何らかの状態で所持していたと考えられます。

 摂関家では数多くの人々が日記を記しています。摂関家が御堂流と呼ばれる道長の子孫となってからは頼通を除いては忠通まで記しており忠通が父・忠実と弟・頼長の二人と対立し、藤氏長者権を剥奪された際に、忠通に譲られた「家」の日記は奪われ改めて頼長に渡されています。
 忠実の時点で既に藤氏長者たる摂関家の継承には「家」の日記が不可欠であったと云うことでしょう。
 しかし、この忠実・頼長と忠通との対立から始まる摂関家内の分裂は後に近衛家と九条家を生むこととなりますが、九条家の祖となる兼実は治承・寿永の内乱期のなか、家領と同様に「家」の日記も近衛家に相続される事となり、九条家は「日記の家」としての摂関家を継ぐべく自家の日記を形成するべく種々からの日記の収集と自らの「玉葉」を記す事に全力を注ぎ、家記の充実を計りました。
 院政期から鎌倉時代にかけて、公家の中で多くの「家」が誕生しますが、これらの家に共通する事は創始者が内容の詳細な日記を記している事です。
 例えば藤原忠親の「山塊記」や藤原経房の「吉記」などがあげられます。
 既成の家の内部では嫡流が家記を有する事が出来、新しい家を興すためには自己の日記が必要となったのでしょう。そこに九条家の兼実からの三代に渡る「正記」が誕生し、「名記」の無い近衛家と対抗出来た由縁だと思われます。

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