第3章 後嵯峨
○論説
3-1 院政の改革

 鎌倉時代の朝廷において、院政は政治構造を大きく変化させて行きました。
第一に太政官符(牒)・官宣旨などと院宣が同様な効力を発揮し始めたと云う事です。
 そもそも、院政以前には各個別政策において上卿と弁官・職事(蔵人)が一帯となって問題処理にあたりました。しかし院政が開始されると院が弁官・職事に命じて政務を行うようにもなったのです。
 第二には、上皇に対する弁官・職事の奏事が制度化され奏事を取り次ぐ伝奏の役職が成立した事です。
 伝奏は後白河院では高階泰経や藤原定長など。後鳥羽院政では葉室光親や中御門宗行などとが分かっていますが、同様に院女房が取り次ぎを計ったと云う例も多々あり伝奏の制度が出来たのは後嵯峨院政からです。
 後嵯峨院政開始と共に葉室定嗣が院中雑事の管領に任じられ、その地位は「執権」と称され執権の職掌の一つとして伝奏を勤めました。
 後に吉田為経が伝奏の職に加わり、定嗣と為経が日々交代で勤めるようになりました。弁官・職事が院に奏事をする事が制度化されると、本来の職掌と無関係な雑事をも上皇より命ぜられる事ともなり、院の奉行的な立場が大きくなって行くのです。
 院が朝廷の諸寺諸人訴訟の窓口になった事もあり、伝奏の制度は公家政権の中枢を担うようなりました。
 そして第三に所領相論の増加に対応する為、また上皇の訴訟裁許の機能を支える為に院評定が成立します。
 これによって院政は恣意的な君主制度ではなく、朝廷内での訴訟などを行う政治機構としての役割を果たすこととなりました。

 院評定は寛元四(1246)年に九条道家が主導していた朝廷での訴訟制度を院が掌握するため幕府より徳政要請がなされ開始されたものです。後嵯峨院は十一月三日、太政大臣西園寺実氏・前内大臣土御門定通・内大臣徳大寺実基・中納言吉田為経・参議葉室定嗣を評定衆と任命し更に大納言堀河具実を加えて毎月一・六・十一・十六・二十一・二十六日を式日として院評定が開催されました。
 後嵯峨院の後、亀山院政によって朝廷訴訟制度の機構は概ね定まるわけですが、後嵯峨院から始まった院評定はその後も訴訟制度の中心であり続けここに後嵯峨院政による院政の改革が行われたと云われる由縁です。

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