第3章 後嵯峨
○論説
3-2 皇統分裂

 鎌倉時代、皇統は大覚寺統と持明院統に分かれていました。しかし、それ以前に幾度かの皇統の断絶があります。後鳥羽天皇が即位する際も、安徳帝からの断絶によって初めて実現するものでした。
 寿永二(1183)年七月、木曽義仲の京都侵攻が迫る中で安徳天皇は平家に伴われて西海へ落ちて行きました。
 後白河上皇を首脳とする朝廷は安徳天皇に変わった新天皇擁立を決定。右大臣九条兼実の玉葉によれば、京中の治安が收まらないのは天皇の不在があり、平家討伐には名目が必要である事などによって新天皇擁立の理由だったと云われています。
 天皇の候補としては故高倉天皇の皇子が当然考えられ、第一皇子は安徳天皇として西海へ、第二皇子(後に後高倉法皇)も安徳とともに平家へ伴われていました。
 残ったのは第三皇子と第四皇子。義仲は自らが保護していた以仁王の遺子・木曽宮を推しましたが後白河は問題ともせず、丹後局の夢想から第四皇子を選ぶつもりで卜を行いましたが結果は第三皇子を示し、義仲がなおも木曽宮を推したので再度卜を行ない今度は第四皇子を示したので擁立を決定。これが後鳥羽天皇となりました。

 承久の乱後、仲恭天皇は廃され行助法親王が後高倉法皇として当極し治天の君となり自らの皇子後堀河天皇が立てられます。
 行助法親王は、後鳥羽院の同母兄ですが上記の通り平家によって西海に伴われた為に皇位候補とはあがらなかった人物です。この後高倉法皇の皇子たち、後堀河天皇の兄二人は既に出家しており、後堀河天皇自身も僧正仁慶の室へ入る予定でしたから、後堀河天皇の登位も承久の乱によってもたらされた偶然の事でした。
 仁治三(1242)年一月九日四条天皇が急死すると後高倉からの皇統は断絶し、朝廷は次代の天皇を決めるべく、順徳天皇の皇子と土御門天皇の皇子が候補とあがりましたが幕府は承久の乱に関与しなかった土御門天皇の皇子を推し、ここに後嵯峨天皇が登位する事となります。

 幕府の使者は十九日に到着し、翌日後嵯峨天皇が当極しますが幕府の使者の到着を待つために空位が十二日も続き、公家に大きな衝撃をもたらしたのでした。
 後鳥羽院以降に二度の皇統の断絶(後鳥羽−順徳−仲恭・後高倉−後堀河−四条・土御門−後嵯峨)があり、後嵯峨以降の大覚寺統・持明院統は後嵯峨院を正当化すべく、後鳥羽−土御門−後嵯峨が正しい皇統であると云う虚構の論理を立て、皇位継承の一貫性を唱えるのでした。

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