第3章 後嵯峨
○論説
3-3 文永・弘安の外交意識
文永五(1268)年、武力行使も辞さない脅迫的文面を持つ元朝フビライ−ハンから国書が日本へ到来し、国政を司る朝廷・幕府は多きな衝撃を受けました。
平安時代より、朝廷は対外的にあっては正式な外交を行わず、一種の閉鎖性。つまりは「島国根性」的な妄想的排外主義が中世の国制イデオロギーを規定していたと云われています。その元となったのは平安京への遷都を行った桓武帝より始まります。
平安時代の最初の天皇・桓武帝の母は朝鮮百済の王の血を引いており、桓武帝は日本の王のみならず、百済の王という認識もあったようです。
その中で古く白村江の敗戦のイメージは「古よりの敵、古敵=新羅」となっていくのでした。
このイメージはその後の天皇にも残り、十世紀の天皇の願文に新羅は「我が日本国と久しき世時より相敵」と表明している事によって証明されます。
つまり、遣唐使廃止と云うのは道真の我が儘でも無く東アジアの混乱を避ける為でも無く、侵略と云うシナリオも含んだ選択肢を協議する為に廃止したのでは?と云う選択肢が生まれるわけです。
もう一つ、そんな中で天皇を絶対化する思想は平安時代、羽を広げて東アジアの情勢に関わらず天皇は天皇であると云う意味で、摂関家からの交易船が大陸に渡り遣唐使と云う朝廷公的な外交は行なわれなくなったと考えられます。
このように朝廷では中世的対外観が形成されて行く経過の中、元朝の国書が到来して国難を迎えたのでした。
太宰府に到着してより直接鎌倉へ転送された国書(蒙古・高麗両国牒状)は、その後朝廷に転送されました。
この事によって国権の重要な項目である外交権が、原則上朝廷にあり、対外的には日本の国王として天皇が見られていたと考えられます。
牒状は朝廷に送られてより、後嵯峨院の評定が開かれ返書をするか否かで評議が繰り返され不可を決定しました。
さて、第一回目の国書の到来では返書をせずとの決定を下した朝廷も三回目の国書到来に至って返書をすべきと云う決定を行いました。しかし幕府の反対にあい返書は送られませんでした。
朝廷は幕府の意向に反対してでも返書を送ろうとした理由はただ一つ。対外危機が高まるにつれて、朝廷は蒙古との戦争を回避とようと考えていたからに他なりません。朝廷は、日本の伝統的な対外的立場を堅持しながらも、平和的・外向的次元で問題解決を目指したのであり、それに対する蒙古の反応を見ようとしたのでしょう。
蒙古国書はあくまでも朝廷・天皇に送られたものであり、実質的な外交権を有する幕府が朝廷に国家の統治者として当時最大の国際問題を幕府が委ねたとの事は朝廷の存在意義が明確に高まったと云えるでしょう。
そして朝廷内では幕府の考えとは異なった平和的解決を指向し、返書を行おうと決定し対外的問題を契機として為政者としての意識が更に高まったと考えられます。
これらのような朝廷の対外的危機感が形成されながらも、大陸の名僧を求める姿勢は消えることがなく、元朝よりの名僧として有名な一山一寧などは日本に多大な影響を残しました。
<一山一寧(1247〜1317)>
一山、名は一寧。宋の台州の人、俗姓は胡氏。
元の成宗は、先代の遺志を継ぎ日本の来貢を促そうとしたところ日本が僧侶を尊ぶ事を聞いて有道の僧侶をして、その勧誘をしようとした。
そして衆評の謀るところ、この一山一寧を使節として遣わす事に決定し一山が日本に来ることとなりました。
一山は日本に来てより上皇などから深く皈依を受け、臣下も同様に中国僧侶を篤く敬う風潮が当時の日本にありました。
後に一山が示寂した際に国師号を下賜した事も、一山が上皇から学徳に秀でていた事を知られ且つ篤く信じていた事が分かります。
一山が日本に来てより廿数年、鎌倉や京都にて法筵を張った事から、朝廷幕府を始め下々に至るまで尊信を受けていました。
その為、元寇以来ほとんど途絶えていた日本僧侶の中国渡航が再び盛んになり、多くの弟子をも輩出しました。
また一山は南宋の朱子の新注を日本に伝えた人としても知られ、日本の朱子学の祖とも崇められています。その教養は儒家・道家・諸子百家から稗官小説などにまで精通し、その宗風がその後の日本の五山文芸界に及ぼした影響は絶大だと云われています。
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