平家繁盛 並徳長寿院導師事
(へいけはんじょう ならびにとくちょうじゅいんどうしのこと)
祇園精舎の鐘声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花色、盛者必衰の理を顕す。
奢れるものも久しからず。
春の夜の夢の如し。
猛心も終には亡ぬ。
風前の塵に同じ。
昔の政治をないがしろにし、民衆の憂いや世の乱れを無視し、終に滅びたものは
中国においては、 夏の寒ソク 秦の趙高 漢の王モウ 梁の周伊 唐の安禄山が、
日本においては、 承平の平将門 天慶の藤原純友 康和の源義親 平治の藤原信頼がいるが、平清盛(入道太政大臣)程のものはいない。
彼の先祖は桓武天皇の第五皇子の一品式部卿葛原親王で、親王から数えて9代目にあたる刑部卿平忠盛の嫡男である。
葛原親王の子の高見王は無位無官で、その子上総守高望王の時の寛平元年に平姓を賜って臣下になった。その子平良望(常陸大丞、後に国香と改称)から貞盛、経衡、正度、正衡、正盛までは殿上を許されなかった。
清盛の父忠盛が備前守だった時に、鳥羽院御願の徳長寿院の三十三間の御堂を建立した勧賞に欠国であった但馬国をもらった。
長承元年2月26日に、この徳長寿院に対して勅願の供養をしようとしたが、風雨や雹のため度々延期となった末に、同年3月13日、天台座主東陽房忠尋僧正が導師となって盛大な供養が行われた。夥しい御布施をもらった導師は夜に退出した。
この寺の別名は平癒寺という。なぜなら、供養の文句に「衆病悉除心身安楽」とあったお陰で2万3千人の病が癒え、重い瘡を患った斉宮の女御もその声を聞いて治癒したからである。
異説に導師は比叡山の二宮地主権現が非人となって、日光、月光、十二神将を引き連れて説法したとあるが、これは間違いかも知れない。
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