五節夜闇打 附五節始 並周成王臣下事
(ごせつのよのやみうち つけたりごせつのはじめ ならびにしゅうのせいおうしんかのこと)



徳長寿院の造進によって平忠盛は刑部卿になり、36にして昇殿を許される。しかし、それを妬む殿上人は、11月の五節及び23日の豊明節会(とよあかりのせちえ)に闇討ちにしようと企む。 闇討ちをを知り、その上で出仕しようとする忠盛に、平家代々の郎等平左兵衛尉家貞は御供を名乗り出、その子平六家長とともに忠盛の護衛をする。 これを訝しげに思った殿上人らは、頭左中弁師俊、蔵人判官平時信をもって詰問するが、家貞は
「暗殺計画がある事を聞いたので護衛についているのだ」
と答え、柄をちらつかせたので、その日の暗殺はなかった。

秦の末、先にカン陽に入ったものの、勢いに優る項羽の怒りを買った漢の劉邦が鴻門にて弁解に赴いたときも、亜父范増の計による項荘の剣に命を落としかけたのを、護衛をしていた樊[口會]の計らいによって命を取り留めた。忠盛も家貞の護衛で助かったのである。

さて、忠盛が縫殿陣の御所の辺で不審人物を見掛けたので、鞘巻を抜いて威嚇をしたら、その者はうつぶせってしまった。たまたま通りがかった勘解由小路中納言経房(当時頭弁)がみてみると、その人物は中宮亮秀成であった。彼がこのような目にあうのは、夢想に犯されて亡くなった中納言秀俊の子供であるからだろうか。

そもそも、五節というのは天武天皇が吉野にいたときに始まる。夜、神女が舞い下りてきたのを察知した天皇は、中国の帝から送られ、豊明かりと名づけた秘蔵の5つの玉を出して様子を見た。すると神女は5人いて、5人がそれぞれ異なる節で

乙女ごが 乙女さびすも から玉を 乙女さびす 其から玉を

という歌を歌い舞った。だから五節という。そして五節の肩脱ぎの時には、彼女らの姿を評した

白薄様厚染紫の紙、巻上の糸、鞆絵書きたる筆の軸や

という言葉をもってはやす。

ところが、この夜の五節は違っていた。忠盛が舞っているのに対し、

伊勢平氏は[目少](すがめ)なりけり

とはやしたてた。これは、忠盛の目が細かった(すがめ)ことと、平氏の勢力地・伊勢の産物の酢瓶とを引っかけた中傷であった。不快に思いながらも、続く乱舞の時も鞘巻を差していた忠盛だが、退出の時に刀を抜き出すのを、例の殿上人たちに見られた。忠盛はかまわず紫宸殿に主殿司を呼び、鞘巻を預けた。 後日殿上人らは上皇に、郎等らを宮中に入れたことと、宮中にて抜刀したことを理由に、忠盛の闕官を訴えた。上皇が忠盛に真否を尋ねると、忠盛は、郎等らは勝手に推参してきたと弁解し、また、抜刀については主殿司に預けてある鞘巻を見るように答えた。そして、その鞘巻を確かめたところ、それは木刀に銀箔を押した物であった。この配慮に上皇は感じ入り、郎等の推参も武士の習いとして、忠盛は却ってお褒めに預かった。

周の成王の時代にも、きりうという武士が成り上がって早鬼大臣となったのを群臣が妬んで、宮殿での古文という宴会で闇討にしようとしたのに対し、忠盛と同様にして、難を遁れ、却って誉められたという例があった。


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