兼家季仲基高家継忠雅等拍子 附忠盛卒事
(かねいえ すえなか もとたか いえつぐ ただまさらひょうし つけたりただもりしゅっ すこと)



平氏は王氏の出ながら位が低かったので都を離れて伊賀や伊勢やに居住していた。だから伊勢平氏というのだが、先のような、忠盛の目が細かった(すがめ)ことと、平氏の勢力地・伊勢の産物の酢瓶とを引っかけた中傷は今に始まったことではない。 村上天皇の時代、左中将兼家は3人の妻を持っていたので三妻錐(みつめぎり)と呼ばれた。さらに、3人の妻が嫉妬に駆られて争い、兼家は宿所を出ていってしまったことから、人々は

三妻錐こそ揉合なれ、穴広々ひろき穴かな

と、はやした。

太宰権帥季仲の場合は肌が黒かった為、黒帥と呼ばれ、蔵人頭のときに

穴黒々黒き頭哉、如何なる人の漆塗るらん

とはやされ、
並んで座っていた基高は逆に白かったので、彼が舞うとき、

穴白々白き頭哉、如何なる人薄押けん

と、はやされた。

右中将家継は、父の代に没落していたのが、裕福だが身分が低い者の婿になり、その裕福さで右中将に登ったので、人々は五節に


絶ぬる父云に及ばず、祖父の代までは家継ぞかし、左曲の右中将

と、はやし立てた。貧乏人が裕福な嫁を持つ事を「左ゆがみ」と言うのでこうはやされたのである。

花山院入道太政大臣忠雅も、10歳の時に父の中納言忠宗が亡くなって、みなしごになったのを、当時播磨守だった中御門中納言家成が婿に取ってもてなしたので、やはり五節に、


播磨米は、木賊(とくさ)か椋の葉か、人の[金台](きら)を付くるとは

と、はやされた。昔もこの調子なのだから、今だったらどんな風にはやされるのだろうか、不安である。

忠盛は子供に恵まれ、嫡男清盛、次男経盛、三男教盛、四男家盛、五男頼盛、六男忠重、七男忠度の七人の息子はみな諸衛佐を経て出世した。日本では息子が7人いるのを長者というので、人々は羨んだ。しかし、人の命は限られている。忠盛は仁平3年1月15日に58歳で亡くなった。彼は毎年精進潔斎するこの日、沐浴をし、焼香、献花した後、西に向かって眠るように亡くなった。三十三間堂の千一体の観音の利益を受けて繁盛し、阿弥陀の来迎を受けた彼の人生を尊敬しないものはなかった。

嫡男清盛は跡を継ぎ、領地もだけでなく家宝も相続した。唐皮という鎧も小烏という太刀も引き継いだ。但し、彼が相続するはずの抜丸が、頼盛に伝わってしまったため、二人の仲が悪くなったということだ。



この回のキーワード・五節の酔宴

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