先の吉夢を見て7日目の夜、南殿に[空鳥](ぬえ)の声がして、藤侍従秀方がわめいた。伺候していた清盛がこれに応じ、[空鳥]をとるように命じられた。無茶な命令であるが、天竺には勅命のため獅子を捕らえた大臣が、中国には虎を捕らえた者もいた。日本においても雷を捕らえたり、鷺を捕らえたりした蔵人もいたので、清盛も承ったのであるが、捕らえようとするとこの鳥は騒いで自ら清盛の袖に飛び込み、捕らえることに成功した。
この鳥は実に小さな鳥で、評定に結果、「毛しゅう」である事が判明した。博士は、毛しゅうは鼠の中国名で、実に珍しいのだが、垂仁天皇3年のに皇居に現れたのを逃がしたところ、疫病・飢饉・戦争が続いた。そして清盛が毛しゅうを捕らえたことは吉事で、これから天候は順調である。と言った。そして毛しゅうを南台の竹で造った籠に入れて、清水寺の岡に埋めた。これが御脳の時の宣命にいう毛しゅう一竹塚である。
清盛はこの功績で安芸守に昇進した。鼠は大黒天の使者で、威勢は大威徳天、福徳は弁才妙音陀天の利益だ。
清盛は平治の乱で播磨守、太宰大弐に昇進、平治の乱では、経盛は伊賀守、頼盛は尾張守、宗盛は遠江守、重盛は伊予守、教盛は越中守、基盛は左衛門佐に任ぜられた。その後清盛は参議、右衛門督、検非違使別当、権中納言、権大納言、内大臣と進み、仁安2年に左右大臣を経ないで太政大臣になった。このことは九条大相国信長だけであるし、太政大臣という職は適任者がいない場合は置かない職だ。
ところが仁安3年11月11日清盛は重病に倒れた。そこで延命のために出家したところ、病がたちどころに治った。法名は浄海である。
平家の権勢は平大納言時忠に
「平家一門でないものは、男も女も尼法師も人ではない」
と言わしめるものだったので、みな、平家に追従し、縁を持とうとした。
呉王が剣を好めば民衆に傷が多くなり、楚王が細い腰を好めば餓死する人が増えたほどで、顔から服まで、王の好みに民衆が合わせたというように、服装も平家のものがはやり、六波羅様と言われるほどになった。
かかる状態であるのに、平家を誹謗するものがいなかったのは、禿の存在があったからだ。主に九重白河の14から17までの童子の髪をおかっぱにしたのを300人程集めた清盛は、彼らを禿と呼び、大宴会の童子をまねて長絹の直垂のときは褐色の布袴、縫物の直垂のときは赤袴を穿かせ、3尺ほどの梅の枝の、下を白くしたものを右手に、鈴と赤い印をつけた鳥の羽を左手に持たせて市中を巡らせ、様子を探らせ、不審人物を容赦なく弾圧した。よくないことである。しかも清盛は禿の言うことを鵜呑みにしたので人々は禿の動向に気を配らなければならなかった。
このような例は日本にはなく、中国に八葉大臣と言う人がやはり禿をそろえ、金帰鳥という鳥をもたせて市中を巡らせた。これによって民の嘆きを知り、改善を施したので、これは善の童子であった。それに対し清盛のは悪の童子であると人々は言った。また、清盛が福原に居たとき、賀茂大明神が禿に現じて300人に混じった事もあった。
また、九条兼実が言っていたとして人が言うには、漢末に王モウという人物が、帝位を狙い、海士に命じて亀を集め、甲羅に勝の字を刻んで浦浦に放ち、密かに竹の節の中に銅の人と馬を鋳造したのを入れ、また、妊娠7ヶ月の妊婦に水銀入りの[言曼]薬(まんやく)という薬を飲ませて、鬼のような赤い子供を生ませた。その子供たちを密かに育て、 「亀の甲羅に勝の字がある時、竹の節の中に銅の人馬がある時は、王モウが天下を治める印だ」 という歌を教え、14.5になった時、おかっぱ頭にして市中で歌を歌わせた。これを聞いた孝平帝は怪しんで、状況を確めると、王モウの策略どおりになっていたので、位を譲ったというが、3年で滅びてしまった。清盛も昇進の野望の為にこうなる、と語り、天狗の仕業ではないかと密かに語った。
唐代に楊貴妃が寵愛を受けた時、一族みな位を貪ったが終に滅びてしまった。平家も男は出世し、女は幸せであった。長男重盛は内大臣の左大将、次男宗盛は中納言の右大将、三男知盛は三位中将、嫡孫の維盛は四位少将、一門で諸国の受領等になっているものは六十人以上、官職も半分は独占しているという繁栄ぶりであった。
天照大神が岩戸から出た時、功労者である藤原氏の先祖の天児屋根尊に政治の補佐を任されて以来、代々摂政関白として補佐してきたので、藤原氏以外が位を争うことは慎まねばならない。
天平12年に参議兵部卿藤原豊成が中衛大将を置き、宝亀4年に近衛大将を兼ねた大納言中務卿藤原魚丸が大同2年4月、近衛府を左近府とし、中近府を右近府としてから兄弟で左右の大将を占めたことは4度である。
文徳天皇の斉衡元年に
左に忠仁公良房(藤原冬嗣次男)、右に西三条右大臣良相(同五男)
朱雀天皇の天慶8年に
左に清慎公実頼(貞信公長男)、右に九条右大臣師輔(同次男)
後朱雀天皇の寛徳2年に、
左に大二乗関白教通(藤原道長次男)、右に堀河右大臣頼宗(同三男)
二条天皇の応保元年に、
左に中山関白基房(法性寺関白次男)、右に後法性寺関白兼実(同三男)
であるが、いずれも摂関家で凡人がなったことがないのだが、平家がこのような左右の大将を占めたのは末代ではあるがふしぎである。大威徳明王の御利益であろうか。
しかし、世の中には不敵な者もいるもので、清盛の家の六波羅の門前に落書をした者も居た。
その文句は