清盛の8人の娘はみな幸せであった。
長女は桜町中納言成範の妻であったが、彼が下野の室の八島に流されてからは花山院左大臣兼雅の妻になった。成範と兼雅は兄弟の契りを結ぶほど仲良かった。
独身で物憂げな兼雅はある時乳人の三位局に成範の妻に恋していると告げた。彼女は帰って妹の侍従に相談すると、妹は成範が兼雅の憂鬱が恋煩いである事を見抜き、もし成範の妻が望みならば、快く差し出すと言っていたことを思い出し、成範にこの事を話した。成範はよく聞かせてくれたといい、三位局を呼び、相談した上で別れることを妻に説得した。兼雅はこの事を知って驚き、次の歌を送った。
この妻(清盛の長女)は美人で絵が上手であった。
紫宸殿の仕切りに伊勢物語の絵を描くことになり、彼女が貞員親王の産屋と竹にいる鳳凰を描いたところ、夜中に笙の音がする。こっそり様子を見ると絵の中の鳳凰が鳴いていたのであった。
昔にも、藤原忠平が扇に書いた郭公(ホトトギス)は扇を開くたびにに鳴いたし、宇治関白藤原頼道の家の中門に円心法師が書いた鶏は朝方鳴くことがよくあった。定朝が造った狛犬は、互いに噛み合って床から落ちたし、彼の7代の孫の院賢法橋が造った芹谷の地蔵堂の子鬼は夜になると動いて近隣の娘を孕ませたので鎖で繋がれた程であった。
そもそもこの成範は故少納言入道信西の三男である。
彼は吉野の桜を好み、室八島より帰還後、町のあちこちに吉野の桜を移植し、そこに家を建てたので、ここは樋口町桜町と呼ばれた。また、彼は桜が7日で散るのを惜しみ、泰山府君を祭り、天照大神に祈ったところ、21日の間散らなかったので、
三女は六条摂政藤原基実の妻となり、琵琶の名人であった。
彼女は経信大納言の四代目の弟子である治部尼上の流れを受けて流泉、啄木まで極めたほどだった。そして、高倉上皇が即位した時、三后に準じる宣旨を受けて、白川殿と言った。
四女は冷泉大納言隆房の妻で、沢山の子供に恵まれた。
彼女は琴の名人で、白楽天が吟じた詩篇詠じて琴を弾いた。また、琴が好きな清盛が秋風、鈴虫、唐琴渋という宝物の琴四張を西園寺の名主、閑院少将、大麻寺紅葉、堀河侍従の四天王に弾かせても、これという瑞相が現れなかったのに、彼女が村雲という琴を弾くといろんな色の村雲が出てきて、人々を感動させた。狭衣の大将や光源氏が演奏して天人が現れたのもかくやとおもわせる。
五女は近衛殿下藤原基通の妻で、美しいからだを薄衣で包んでいたので衣通姫(そとおりひめ)とよばれた。彼女は和歌の名人で、宮中の歌会に呼ばれた基通が着替えている間に、こっそりと知ったお題に対し、すらすらと一字も直さず作った。
春日山神祇……春日山かすめる空にちはやぶる神に光はのどけかりけり
鷲山釈教………わしの山おろす嵐のいかなれば雲ものこらずてらす月影
是心仏玉文……まとひつゝ仏の道をもとむればわが心にぞたづね入ぬる
旅立空秋無常…草村におく白露に身をよせしふく秋風をきくぞかなしき
恋音旧蹟………あるじなき宿の軒ばに匂うめいとヾ昔のはなずこひしき
六女は七条修理大夫信隆の妻になった。美貌も諸芸にも優れていたが、障りある女身を悲しんでいつも持仏堂に入って暗記している法華経を毎日転読し竜女の成仏を慕って祈っていた。
七女は安芸の厳島の内侍の娘で、さしたる才能はなかったが、美しかったので18の時に後白河院のもとに参り、更衣の后になったが、程なく亡くなった。母の内侍は、後に越中前司盛俊が清盛から賜ったが、彼が一の谷で討たれた後は、土肥次郎実平と一緒になったといわれる。
八女は九条院の雑子の常盤の娘で、花山院左大臣兼雅の妻と仲がよかったので上臈女房としており、三条殿、または廊の御方と呼ばれた。兼雅も密通したので、娘が一人できた。彼女は和琴が上手のうえ、字が奇麗であったので、手本の依頼が多く、彼女の周りはいろいろな紙でいっぱいだった。
異本には、八女は大納言有房の妻で絵、花結、連句、作文諸芸に秀で、字も美しく、一筆で色紙の銘を書いたので、後白河院も賛嘆したとある。
平家は全国の半分を治行し、荘園は五百にも及び、宝物が集まり、皇室をしのぐほど大繁盛していた。源平両氏は反逆者を互いに取り締まっていたので世の乱れがなかったのだが、源氏は保元の乱で為義が斬られ、平治の乱で義朝が討たれて散り散りになった後は、平家のみが武威を奪って政治をほしいままにし、この先も平家と争う者は無いように思えた。