5月21日、清盛の次男遠江守基盛が藤原基房の車を打ち伏せた。平家の乱行の始めであった。
保元元年より不穏な出来事が続出しているが、永暦、応保のころより二条天皇と後白河上皇との仲が悪くなり、互いの近習を罰しあうようになった。
永暦元年2月21日には上皇が天皇の外戚の権大納言経宗と別当惟方を捕らえ、後日阿波と長門に流罪になった。6月15日には前出雲守光保の息子備後守光宗が上皇への反逆の陰謀があるとのことで薩摩に流したが、彼は命が下った後自害した。応保元年9月15日には左馬権頭平頼盛と右少弁時忠が高倉宮を皇太子にしようとして解官された。清盛は上皇が政治に口出しすべきではないと申し上げた。
同じ日に除目が行われ、上皇からは、信範を右少弁に時忠を五位蔵人に就けるよう申し入れがあったが、天皇は天子に父母はいないと主張し、これを無視し、長方と重方をそれぞれ右少弁・五位蔵人に任じた。天皇の主張は延喜にあった先例を引いているのだが、じつはその先例は間違いであったことをご存知なのだろうか。政道としてはいいかもしれないが、孝行の道としては失格である。
同年6月2日にも、賀茂社に男を参篭させ、天皇を呪詛せしめた疑いで修理大夫資賢・少将道家・上総介雅賢らが解官された。
孝行こそが大事であるゆえ、上皇の意志は尊重されるべきであるのだが。