二代后 附則天皇后事
(にだいのきさき つけたりそくてんこうごうのこと)



徳大寺左大臣藤原公能の娘であった故近衛院の后は院亡き後近衛河原の御所に移り、ひっそりと暮らしていたが、まだ27.8の年で、美しかったので、二条天皇は見惚れてしばしば文を遣わしたが埒が明かない。その内に事が露見したので、父の公能に宣旨を下した。
公卿達は僉議をしたが、二代にわたっての皇后というのは大変珍しく、同意しかねる旨を上奏した。しかし、例が無い訳ではない。唐の太宗の后の則天皇后の例である。

太宗亡き後、彼女は仏門に入った。しかし帝位を継いだ高宗が、継母に当たる彼女を求めた。五度使いを送ってもなびかないので、高宗自ら彼女が暮らす感業寺に赴いた。それでも拒否したので、高宗は力ずくで都に連れ帰って還俗させ、后にした。
その後高宗の后として34年、高宗亡き後は自ら女帝となり21年、その後、位を中宗に譲った。日本の文武天皇の慶雲2年にあたる。

確かに異朝に例があるが日本ではそんな例は無いと公卿達も後白河法皇までも度々諌めたが、天皇はまた「天子に父母はいない」と突っぱね、入内の日程を決めてしまったので、どうすることもできなかった。
嘆きのうちに暮れる前皇后に対し、父の公能は、
「世間に従わないのは狂人と言われる。勅命が下った以上どうしようもない。これも親孝行だと思って家門の繁栄に役立って欲しい」
などと慰めたが、返事はなく、前皇后は手習いのついでに和歌を書いた。

浮節に沈みもはで川竹のよにためしなき名をばながしつ

こうして皇后は入内し、麗景殿に入った。 さて、紫宸殿の障子には、賢者や聖人、後漢の功臣や奇妙な生き物など、さまざまな人物が描かれていた。そして巨勢金岡が描いた荒海の障子の北に遠山の有明が描かれた障子があったが、この障子は亡き先帝が幼かったころに描いたものであった。当時と少しも違わぬ障子に、皇后の心は揺れ動いた。

思きや憂身ながらに廻きておなじ雲井の月をみんとは

ところが、永万元年の春頃より、二条天皇の具合が悪くなった。夏になって、更に重くなった天皇は、大蔵大輔兼盛の娘の腹の、まだ二歳の皇子を皇太子につけようとして、6月25日に宣旨を下し、その夜に位を譲った。
わずか二歳の幼帝に、周囲は慌てふためいた。日本の例では、天安2年に清和天皇が9歳で文徳天皇から譲られたのが始まりで、この時は外祖父の忠仁公藤原良房が摂政となって、成王を助けた周公旦のように、代わって政治を執った。これが摂政の始まりである。

鳥羽院の5歳、近衛院の3歳の即位が早すぎると言われていた所、今回前例が無い二歳の幼帝。世間は物騒がしかった。


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