額打論 付山僧焼清水寺 並会稽山事
(がくうちろん つけたりさんそうせいすゐじをやく ならびにかいけいざんのこと)



二条院の葬送において大衆達が騒ぎを起こした。葬送では僧たちが自分達の寺の額を立てて供養するのが習わしで、南都では東大寺、興福寺、京では延暦寺からと、順番が決まっていた。ところが、東大寺の後に延暦寺の僧が額を置こうとすると、どういう訳か興福寺東門院の観音房・勢至房という武装した悪僧が長刀の先に興福寺の額を引っかけて延暦寺の額の上に置き、声高らかに宣言したのだ。 延暦寺の大衆は黙っていたのでかの二人は延暦寺の額を斬って捨て挑発したが反応が無いので、

「うれしや水、鳴るは滝の水」

と歌い、体を傾け傾け暫く舞った。それでも延暦寺の大衆は怖じ気たのか、考えている旨があるのか、一言も言わなかった。

治天の君たる天皇が亡くなると、草木までも憂いの色を見せる。増してや人や僧侶に至っては言うまでもないのに、このような騒ぎが起こって、散々な葬送であったということが知れ渡ると、位の高いものも低いものもわめき叫んだのは不憫であった。

8月に入り、延暦寺の大衆が京に来ることが知れ渡った。噂では興福寺の末寺の清水寺を焼くためであるとか、上皇に奏上して、先の葬送での遺恨に乗じて清盛を誅するとも言われた。
さっそく
源兵庫頭頼政
大夫尉信兼
左衛門尉源重貞
同尉為経・康綱らを堤に向かわせて守護させる。

立烏帽子を被る内蔵頭平教盛、
折烏帽子の若狭守経盛、
そして甲冑に身を包んだ大夫尉平貞能以下の武士達は皇居の四面を守護する。雑役の車を逆茂木にし、兵が京に這い回り、迷惑な状態であった。
検非違使季光に堤の様子を偵察させる。帰ってきた季光の答えは、
「大衆らは数百人で山道を通って集まりつつあり、山道では防ぎきれない」とのことであった。
大衆の目的が清盛を討つためであるとの噂が飛んでいるので、右兵衛督平重盛・修理大夫平頼盛・左馬守宗盛以下一族が六波羅の清盛邸に集まった。衆徒を防ぐ気持ちは無く、固く屋敷を守ったのであった。

そうこうしているうちに大衆の目的が平家追討ではなく、葬送の遺恨を晴らすために興福寺の末寺の清水寺を焼くことである事が分かった。清水寺の僧たちは騒ぎ合い、二手に分かれ、一方は堀を据え、逆茂木を引き五百騎をもって固める。もう一方は懸橋を落とし、垣盾をたてること千騎弱であった。京童はこの様子を、延暦寺に楯突いて身分不相応なことで、危ない危ない、と笑った。
到着した延暦寺の大衆達も二手に分かれ、前から後ろから攻め立てる清水寺の僧侶達も盾の前に出て戦ったが多勢に無勢で、すぐに坊舎に火をかけ、本尊を背負って抜け道を使って退却した。延暦寺の僧たちは会稽の恥を雪(きよ)めたぞ!と思った。

会稽の恥を雪むというのはこういう事である。中国に、桑のよく生える会稽山と言う場所があり、この山を巡って、越の允常王と呉の闔閭王は激しく争った末、呉王が討たれた。子の勾践と夫差の代になっても争い、越王の勾践は、呉王の夫差が親の敵と思って仕掛けてくるだろうと思って戦っていると、誤って捕まってしまった。本国に帰ること許されない勾践は砕身して奉公に励んだので、刑を許された。
その後、夫差が病に倒れた。医術が功を奏さず、医師は誰かが尿を飲んでその味で診察する、と言ったが誰も飲むものがいなかった。そこで勾践は、夫差に刑を許してもらった恩を返す時だ、と言い、夫差の尿を飲む。これに感動した夫差は勾践を本国に帰してしまった。後に勾践は軍を建て直し夫差を破り会稽山を治めることになる。これを会稽の恥を雪むというのである。

かの延暦寺の衆徒は額を斬られて恥にに遭い、清水を煙とすることで面目を保ってのである。これは本当に恥を雪むと言っていいのだろうか。京童は、
「山僧(延暦寺の衆徒)は田楽法師に似ている、討つ敵を打ち返さずに、側のものを打つように、興福寺の衆徒に額を斬られて、清水法師の頭をはったのだ。」
と笑った。

嵯峨天皇の后で坂上田村丸(麻呂)の娘の春子女御の出産の無事を祈って、氏寺である清水寺に三重の塔を建設するいう御願を立てた。かくして無事門居親王が誕生し、承和4年に三重塔が建立された。
その三重の塔も焼けてしまって、本堂一宇のみが残ったのだが、延暦寺の衆徒がそろそろ引き上げようとした時に、延暦寺東塔南谷教光坊大阿闍梨仙性という、学匠且つ大悪僧である者が僉議して、罪を恐れず本堂に火を放つように言ったので、衆徒一同も「尤も尤も」と同意して、放火したので、その煙で太陽の光も見えなかった。

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