清水寺縁起並上皇臨幸六波羅事
(せいすゐじえんぎ ならびにじょうこうのろくはらにりんこうのこと)



この清水寺というのは…
昔大和国子嶋寺に賢心という沙門がいた。淀川を渡ると水の中に金色をした一筋の流れがあった。ただ事ではないと思った彼が流れの源を辿っていくと山城国愛宕郡八坂郷東山の辺にある清水の滝に至った。そこには怪しげな草庵があり、白髪白衣の居士が居た。賢心が訪ねてみると、居士は
「私は行叡、ここで数百歳の年月を過ごしている。心に観音の威神力を信じ、口に千手観音の真言を唱えている。私は東国修行の志がある。よく聞け、此処は伽藍を建てるのに優れた場所である。前にある株は観音の材料たる材木である。必ずや私の望みをかなえるのだ。」
と言って、東を指して去ってしまった。
それから賢心はここに住み着き、修行を続けて数年たったころ、坂上田村麻呂が東征の折に瑞異驚いて賢心と師壇の契りを交わし、宝亀11年に伽藍を草創し、金色八尺の千手観音を造立した。延喜大同年間に仏殿が完成して以来既に400年以上も経っている寺である。

嵯峨天皇も清水寺に対して信仰の意を述べる勅書をしたためるなど、天皇から全国の民々までが、この観音の慈悲をたのんでいたのだ。そんなありがたい伽藍は煙となり、仏像は灰に変じてしまったのである。千手観音の眷族の二十八部衆の照絹、誠に知りにくく、宗徒は、このように焼き払った後、比叡山に帰っていった。
清盛は数千の兵を擁しておきながら、まったくこの災難を救うことはなかった。山門の宗徒が悪行をしようが、守ろうとしなかった。王威の衰微・仏法の破滅はまさにこの時であった。

切堤川原にいた武士が陣頭に参上した。事情を問われるためてある。その中で、源頼政を陣の中に召した。頼政は、白い見紋紗の水干、小袴に藍摺の帷を着て、立烏帽子に太刀を佩き、やなぐいを背負わずに、底浅の沓を履き、渡辺の源三競(きおう)という郎党を一人連れていた。その姿はまこと華やかであった。子息伊豆守仲綱以下の兵は門外に伺候していた。源氏の作法は優雅で他のものと違うと見物に来ていた人は感じて言った。

以前からの巷のうわさに、清盛のこと(で御白河上皇がなにか企んでいる)と言うことが聞かれていたので、六波羅には武士が雲霞のように集まった。内裏を守護するものまで清盛亭に集まったので、左衛門督重盛は、
「平家追討というのは間違いであろう、上皇の元に参ってご機嫌をお伺いしよう」
として、院参したところ、上皇は巷の説が間違いであることを言うために六波羅にお出ましになった。左衛門督公光と治部藤原光隆がお供である。
御幸の途中で会った重盛もお供して六波羅に向かいいれた。ところが清盛は用心のためだろうか、所労と称して姿を見せなかったので、上皇たちは空しくお帰りになった。
君臣の道も、上下の礼も背いていたのに上皇は君として罰することができなかったし、清盛も臣としてお咎めを恐れることもなかった。天皇家の恥、武士の驕りがこの出来事にある。これは平家の狼藉の二番目のものである。

重盛は上皇をお送りした後六波羅に帰って、清盛に
「上皇の御幸は恐れ多いことだと思いますが…」と言うと、清盛は
「考えることがちょっとあったのだ。平家追討と言うことが漏れてきたんで、御幸といっても打ち解けられなかったのだ!!」と憤ったので、重盛は
「そのようなことは決して思うことも言葉に出すこともお止めくださいませ。保元・平治と逆心を誅罰し勲功も多く主君のために尽くし、不忠を考えたことなどありません。どうして我が一門の追討の企てがあるのでしょうか。この様な事をしていればきっと人心は離れ、無実から悪事を着せられる事になるでしょう。今後も院のご意向に背かず、人のために恵みを施そうと思われるのならば、神仏の御加護がきっとある事でしょう。ですから恐れることなどありません」といって立ったので、清盛は
「この重盛はたいそうな大人物よのう」 と言われた。

後白河院は六波羅よりお帰りになって、疎遠でない近臣の按察使入道資賢を始めとして人々が伺候しているところで、
「平家追討とは何者が言い出したのだろう?この様な事はありもしない説なのに、世の一大事にまて及んでしまった」
とおっしゃると、みな口を閉じて何も言わなかった。そこに、西光法師が近くに伺候していて、
「天に口がないので人が代わりに言ったのですよ。奢って無礼なのは、天罰の徴候です。清盛はもっての外に身の程を超えています。これは平家滅亡の瑞相ではありませんかな」と申すと、人はこれを聞いて、
「壁に耳あり」といって抜き足して退出する輩もいた。

清水寺炎上の翌朝、焼けた大門の前にこのように立て札がしてあった。
「観音よ、観音よ、火の穴を池に変えたと法華経にあるのは、どのように誓ったことなのでしょう」
と。
翌日それの返事と思えるものが、
「永久にわからないことなので答えるに及ばない」と
書かれていた。
また、どのような浮浪者の仕業であろうか、立て札に
「補陀落山にいたときだったら、火で焼き尽くすことなどできることなかったのでしょうに」
と書かれていた。哀れであきれる中にも、可笑しいことである。

同じく10日、祇園所司がこの様な奏状を送った。
「興福寺の大衆が参洛を企てて、当社を焼き払おうとしています。官兵を賜って、守護してもらう予定です。そうでなければ御神体を負って比叡山に登ります」
また山階寺の大衆が参洛を企てて、延暦寺の末寺末社を焼き払うとのことを言上したところ、蔵人木工頭重方が勅定を被って別当に、
「考えに任せて上奏しなさい。もし、参洛を押さえなければ、別当以下は勅定に背くことになるぞ」と宣下した。
同12日、法務僧正恵信が官職を停止され、源義基は伊予国に配流された。
これは僧正が義基を率いて発向したからである。このたびの蜂起において僧正もともに行動するよう大衆が言ったのを僧正が認めて発向したので、罪に問われたのである。
先の二条帝が崩御されて今日で14日、刑罰が行われるというのは大変ひどいことだと思われた。

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