朝覲行幸事
(ちょうきんぎょうこうのこと)


嘉応三年正月三日、高倉天皇は元服あそばされて、十三日に朝覲の行幸をされた。後白河法皇も女院の建春門院も素晴らしく華やかに天皇の行幸をお待ちになった。天皇が初めて烏帽子を被った御姿はまこと美しかった。

朝覲の行幸とは、漢の高祖が位に就いた後、五日に一度父太公のもとに行って父子の礼儀としたことから始まる。太公の家司に賢いものがいた。彼は太公は問うに、

「天に二つの太陽なし、地に二つの君主なし。高祖は子でありますが人主であり、太公は高祖の父でありますが人臣であります。どうして人主が人臣を拝むのでしょうか。このようであれば、却って良くないでしょう。」

と言った。その後に高祖が朝覲すると、太公が門に下りて迎えた。高祖はびっくりして、

「何事ですか」

と問う。太公はこれに、

「家司が申す事が道理に叶っているとおもわれた。どうして卑しい身分で天下の法を乱せようかという道理である。」

と言ったところ、高祖は太公を拝することは止めたが、そうであっても恩の深い父を拝せずにいるわけにもいかないので、太公の身分を太上皇とし、また朝覲した。高祖は家司の言葉を感じ入り、五百斤の黄金を御与えになった。

日本でも天皇の父を太上天皇として朝覲するのはこの故である。

この年の四月二十一日改元があって承安元年と名付けられた。三月には太政大臣清盛の次女が今年で十五歳におなりになる。法皇のお子として入内され、中宮徳子と申す。七月には相撲が行われたそうである。重盛はこの折、華やかに素晴らしくおいでであった。

「然るべき宿命で官位が思うままになっているのだとは思うが、容姿はなかなかそうはいかないものなのに、重盛公は何事も欠けることがない。このようなことがございますでしょうか」

と、人々は褒めた。子供の少将維盛から弟の公達に至るまで、姿は並みの人に勝っている。更に重盛は情け深く、詩歌、管弦、神楽の歌、笛までも教える事までできるので、貴族たちもこれはめったにいないお方だと、言い合った。

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