左右大将事
(さうのたいしょうのこと)


そうしているほどに、筆頭と次席の大納言でいらっしゃる徳大寺(藤原)実定卿と花山院(藤原)兼雅卿もいろいろ祈られるようになった。平家の方は右大将だった重盛が左大将に、中納言だった宗盛が右大将になって、兄弟で両大将を勤める事となり、これまたすごいことである。

実定は筆頭の大納言であるし、能力的にも勝っており、家督相続者でもあり、今回の大将はきっと実定のものになるはずだったのが、宗盛に越えられてしまい、大層お恨みになり、きっと出家するのではないかと人々が噂しあっていたところ、大納言を辞職して家に閉じこもってしまった。

成親卿の方も、さすがに先のようなお告げがあったので、大将を望む事は思いとどまったものの、それでもなお、執着癖が治らず、

「徳大寺や花山院といった人々に越えられるのは仕方が無い。だがあの三位中将風情の宗盛に越えられたら、上座につくものとしてはどうすればよいのだろう。宗盛に越えられるのはなんとも悔しい」

と思い、

「何とか平家を亡ぼして本望を遂げよう」

と思う心が離れないというのは不思議な事だった。

それというのも、成親という人は平治の乱に荷担して死罪になったにも関わらず、重盛のとりなしで首が繋がって、乱の首謀者である藤原信頼の首が落とされるところを見た人ではなかったのではないか。彼の父家成は中納言で止まったのに、その末っ子で正二位・大納言まで登り、未だ四十二歳で大きな国をいくつも頂き、家中豊かであるのに何の不満があるのだろうか、天魔が成親の身に入ってこの家を亡ぼそうと思っているのだろうか、驚きあきれる事だ。

また、宗盛に位を越された実定の方は、山に篭っていたのだが、ある嵐の朝、前中納言顕長卿に和歌を贈った。

夜半にふく 嵐につけて 思ふかな 都もかくや あきはさびしき

顕長の返事には

世の中に あきはてぬれば 都にも 今はあらしの 音のみぞする

そして出家する事を披露し、天皇や上皇をも驚かせた実定ですが、清盛に対して一言吐き捨てた後は何も音沙汰無かったのでした。

実定お側には佐藤兵衛尉近宗という賢い者がいて実定卿は常々彼と相談していました。

「平家は桓武天皇の後胤とはいうものの、無官でせいぜい辺鄙な受領だったのが忠盛の時にのし上がってきた。それに比べて我家は仁義公太政大臣藤原公季以来ずっと御門の近くに仕え、大将の位を歴任してきた。それが今回あの宗盛に越され、世間はきっと嘲るだろう。こうなっては出家せねばと思っているのだが、どうしたものであろう。」

近宗は答えます。

「御出家までする事はないでしょう。太公望も竹林の七賢も庄公も濁れる世を避けてしかるべき時を待ったではないですか。今回の事で朝廷を恨んではなりません。あれは清盛入道の我が侭です。こんな辛い世の中に生れてきたのはしょうがないですが、賢は愚にかえるとか言うではありませんか。今は何としても大将の位につくべきです。そこでなのですが、どうぞ、安芸の厳島へお祈りに行くのがよいでしょう。なにせ、あそこは平家が深く信仰していて、内侍と呼ばれる巫女達が毎年一度は上洛して清盛の目にかかると承っております。大将任官のお願いなどをしますと安芸の明神の御利益もあるでしょうし、入道も信仰深い人なので、思い直す事もあるでしょう。」

近宗の意見に耳を貸した実定は早速精進潔斎して、厳島に向って漕ぎ出しました。三月の半ばの頃でしたので、山々に霞がかかり、都がどんどん離れてゆき、実定卿は心配になってきましたが、無理もないこと。

舟は須磨の浦を過ぎてゆく。在原行平が

旅人の たもとすゝしく なりぬらん 関 吹きこゆる 須磨浦波

と吟じたのも思い出される。

また、須磨の浦といいますとかの光源氏がやってきた場所で、源氏が家臣の惟光や良清と一緒に琴や歌を歌っているときにやってきた源氏の思い人の五節君との和歌のやり取りも、今更ながら思い出される。

さらに明石の浦へとやってきますと光源氏と明石上の出会いもこの近くであったのだろうが、思い出す手がかりも無い。

四月二日には厳島に到着した。その美しく、神々しいたたずまいから、内侍と呼ばれる厳島の巫女たちが歓迎する。実定卿の御参篭の予定は七日間だが、その間、内侍たちは今様や琵琶、琴などで実定卿を慰め、実定卿も彼女らに目をかけなさった。

その内侍の中に有子という者がいました。十六、七というところだろうか。幼稚でいつも実定卿の元に参上しているわけでもないが、琵琶が大変上手で、実定卿も思わず京のことを忘れてしまうほど目をかけられていた。

ある日、有子は実定卿の元にやってきた。早くやってきたので周りには有子一人だった。そこで実定卿が有子に出身などを尋ねると、有子は恥ずかしくなってもじもじする。実定卿はその姿にいたく思われて、懐から紙を出し、

山の端に 契て出でん 夜半の月 廻逢べき 折を知ねど

と書いて有子に投げた。それを見た有子は恥ずかしさに堪えれなくなって退出した。実定卿の方はいつものような恋愛事だと思っているのだが、有子の方はもっと思い沈んでいた。

そうして七日も過ぎ、とうとう実定が都に帰る日が来た。有子も他の内侍と共に見送りにやって来た。でも、有子はこれで実定卿が行ってしまうともう二度と逢えないだろうと思うととても悲しくなって伏し沈んでしまう。そこで一日目の港まで御一緒することにした。その翌日、とうとうお暇申し上げることになった折、実定卿はそんな有子の気持ちを汲み取って、とうとう一緒に京まで行くことになったのだった。明石、高砂、須磨の浦、雀の松原、小屋の松、淀の泊と、有子と一緒に船は進み、やがて鳥羽の渚に到着する。

そうして参篭の人々は船より降りて京に向かった。有子も徳大寺実定卿についてゆき、三日の間お世話になり、引出物も貰い、実定卿にお暇申し上げ、屋敷を後にした。有子は折角京に登って来たのだからということで、西八条にある清盛の屋敷を尋ねた。清盛は早速事の次第を聞いたところ、有子は、実定が大将に漏れたことを悔やんで厳島に参篭し、有子をいたわって京まで一緒になり、引出物もいろいろ貰ったことを話すと、感動屋の清盛ははらはらと涙を流す。

「近衛大将になることは家の前途に関わることだ。御嘆きもごもっともだ。それにしても都の中には神社仏閣いくらでもあるのに、私が深く信仰している厳島まで行かれたのはなんともすばらしいことだ。そう、実定卿が今度大将になられるのはスジだったのだが、私の差し金で宗盛を大将に推挙してしまった。なんとかしようではないか。」

その後すぐに、左大将だった重盛は辞職申し上げて右大将に移り、清盛は実定卿を左大将に推挙した。

実定卿はこの年の五月八日に御悦び申し上げ、発案者の佐藤兵衛近宗を左衛門尉に上げられ、さらに但馬国の城崎庄を賜った。厳島の霊験もさる事ながら、近宗の計画はまことに神妙であったと、実定卿は思ったのだった。

 

今回のキーワード:覚一本との違い
この章段、覚一本では成親が殺害された後に、成親と実定のやり方の違いを対比する形で挿入されています。しかし、流れからいえば、こちらの方がスムーズで時系列に適い、原型に当ると感じられます。(延慶本も源平盛衰記と同じ配置です)覚一本のような対比の構図を持ち出す事は物語を盛り上げるため作為と感じられます。


前に戻る 巻三の表紙に戻る 続きを読む