高倉院春宮立御即位事
(たかくらのゐんとうぐうだちごそくゐのこと)


同じく永万元年2月25日に故建春門院がまだ位が低く東の御方と申していた時にできた皇子が5歳になられて、親王の宣旨を下された。ずっと外に出ることなくいらっしゃったのだが、現在、後白河院が政治の様子をお聞きになったところ、憚りなく宣下された。
翌2年8月に改元がなされ仁安ということになった。仁安元年10月7日に高倉院は6歳にして東三条で春宮立の儀式があった。翌年2月19日には御年7歳にして御即位された。
春宮とは帝の御子のことを言う。また、太子とも言う。弟君は大弟という。それにしては、二条帝は甥にして3歳、春宮は叔父にして6歳である。昭穆相叶わず…年齢と位の順番がおかしいのではないか、なんとも騒がしいと言われた。
ただ、一条院は寛和2年7月22日に7歳で御即位され、 二条院同年3年7月16日に11歳にて春宮にお立ちなされたので先例が無いわけではないと言う人もいた。

六条院は二歳で御即位されたのだが、2月19日に春宮が即位されたので、僅か2、3年で位を退かれで新院と言うことになった。新院はが5歳に御成になったところ、未だ御元服も済ませないで位を譲り太上天皇の尊号を持たれたということは、中国にも我国にもこれが初めてのことである。
そして終に安元2年7月28日、御年13でお隠れになられたのは哀れな事であった。

仁安3年3年3月20日に大極殿で高倉帝が御即位になったので、いよいよ平家の栄華であるとおもわれる。天皇の母・国母たる建春門院という御方は平家一門でいらっしゃる上、清盛の妻の二位殿がこの女院の姉にあたるので、清盛や二位殿のまわりはこの度、天皇の外戚となり、たいそうなことである。平大納言時忠は建春門院の兄にあたる上、天皇の外戚ということで内に外に御縁についている。執権の臣という感じ振る舞いである。叙位も除目も偏にこの時忠の判断で決まっていたので、世の人は彼のことを「平関白」と言った。

注・本文中の年号は原文に依っています。明らかにおかしいところがあるとは思いますが、ご了承くださいませ。

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