一院御出家事
(いちゐんごしゅっけのこと)
高倉天皇が即位された後は争う相手も無く、後白河上皇は政治の様子を御聞きになるところ、院中の近臣の公卿や殿上人以下北面の武士に至るまで程々に随って官位や俸禄など、身に余るほど朝恩をうけているにもかかわらず、人の心としてそれでも猶飽き足らず思って、平家の一族だけが官職を独占していることに気に食わず、
「この人が亡くなったら官職があくだろう、あの人が死んだらこの官職はあくだろう」
と心の中で思っていた。平家に親しくない輩も集まってはささやくことが多かった。
後白河上皇も思われていたことには、
「昔から朝敵を誅戮するものは多くいるが、この様なのはあっただろうか。平貞盛と藤原秀郷が平将門を討ったときも勧賞には秀郷は四位下、貞盛には五位上に叙せられ、康平年間に源頼義が安倍宗任を誅したときも、勧賞には頼義に伊予守、息子義家に従五位下が叙せられただけで、上代で既にこの様なものなので、末代はこれに過ぎる恩賞はよろしくない。逆臣が滅びるのは王法の威力であって勇士の力であると思ってはいけない。清盛がこのように思いのままに振舞うのは然るべきことではない。これも末代に及んで王法が尽きてしまったのてあろうか、とてもつまらないことだ」
と御思いになって一心に後世の御勤め、つまり御出家を御思いになったと噂され程に、仁安四年四月八日に改元があって嘉応というようになった。
そして嘉応元年の六月十七日に、上皇は法住寺殿で御出家される。御年は43歳、御戒師は前大僧正覚忠、唄法印公舜憲覚、御剃手は尊覚大僧都公顕である。今回の御出家は皆智[言登]の門徒、つまり三井寺の門徒を用いられる。御布施は清盛以下が取り仕切った。今日から始めて生前に死後の冥福を祈る50日の御逆修があり、8月8日に結願される。
そんなわけで、二条院は御嫡子であるが先立ちされてしまった。六条院は嫡孫今の高倉天皇は御子であられたので、行く末もたのもしいことであるが、平家が天皇をないがしろにすることを良く思わなかったところ、この世の習や人の有様もうっとおしく御思いになられたので、前世で十善ご積んできた身の髪を落とし、浄土の九品の蓮台を御志になるのも大変尊いことである、平家の振舞が却って善知識、つまり出家を志すきっかけであると御思いになる。御年もまだまだ盛りでござったので「今しばらく御出家は…」と思い合われたが、清盛入道は善し悪し物言わず「そのようなこともあるよ」と思ったそうだ。
帝が出家されることは孝謙女帝が御出家なされて法名を法基と言ったことから始まった。彼女は後に還俗して再び皇位につき称徳天皇と言った。それより以来、平城、仁明、清和、陽成、宇多、朱雀、円融、花山、一条、三条、後三条、白河、鳥羽、讃岐それに今の後白河院の以上16代に法皇の尊号がある。
今回のキーワード:讃岐院…讃岐院とは崇徳天皇のことです。保元の乱で敗れた上皇の配流先よりつけられたのですが、干死して怨霊となったと噂されたため、その霊を慰めるべく諡号(天皇が死後に贈られる名前で皆さんが学校などで○○天皇と名乗るものは後醍醐天皇以外全て死後に贈られたものです。)が「崇徳」と改められました。この「徳」の字を諡号に持つ天皇は、「慰めねばならない理由」をもつ方ばかりです。(この物語の終わりの方で海に沈む天皇も確か…)それに、干死、つまり餓死して死んだ人は怨霊が強いと考えられていました。
前に戻る
巻三の表紙に戻る
続きを読む