資盛乗合狼藉事
(すけもりのりあいろうぜきのこと)
平家の事を不快に思われて後白河法皇は出家なされたのに、平家一門は猶も気づかなかったのであろうか、わがまましほうだいの振舞いであった。
その中に、運が傾く印であろうか、嘉応二年七月三日、法勝寺に御幸があったので、当時の摂政である藤原基房公(通称松殿)が参上なされた。その帰り、基房公は三条京極を過ぎなさるところ、女房が乗る牛車があった。夕陽の光でその車の中が透けてよく見える。そこには烏帽子をかぶった者が乗っていた。基房公の牛飼いや舎人たちが下車するように強く迫ったところ、この牛車はやり過ごそうとする。これを狼藉として、この牛車の簾を切り落としたところ、葛の袴を着た男がいた。この男が牛車を馳せて逃げようとするのを、基房公の一味は追っかけて散々に叩き、結局男の車は六角京極の小さな家に入ったのであった。
この男というのは、清盛の孫、越前守資盛であった。彼は笛を習おうとして、式部大輔雅盛の家に行っていたのだか、その帰途に基房公の車と出会ったのである。
資盛は帰宅後、父の小松殿重盛に事情を説明したところ、
「摂政基房公と出会って車より降りなかったことこそ馬鹿げている。『栴檀は双葉より芳ばしく四十里の伊蘭林を翻し、頻伽(びんが)鳥は卵の中でもその声は諸々の鳥に優る』というではないか。幼稚というのは五、六歳のことなのだぞ。お前はもう十歳以上ではないか。礼儀を知らない訳ではあるまい。官には深浅の法がある。政治はよこしまなことが無いのが基本。礼儀は敬うことが本分。仲間や同僚にもなおもって敬うべきで、摂関家に対しては言うまでもない。この様な事こそ大事件に発展するのだぞ。御供の侍どもが道理を心得ていないのでこのような狼藉をおこして無礼の目にも合うのだぞ」
と、大いに叱って説教した。基房公の御供の者も、清盛の孫とも知らず、資盛の供の者も基房公の孫とも知らなかったので、この様な事が起こったのであろうか。
一方基房の方は、かの男が清盛の孫ということを御聞きになって、当事者である牛飼いや舎人らを重盛の元へ引き渡した。その上で蔵人右少弁兼光を使者にして、事件を陳謝したところ、重盛は大いに畏まって、牛飼い舎人等をすぐにお返しになったが、それでもなお、牛飼い舎人三人は検非違使基広に預けなさり、御供のもの四人を左遷させた。その中に府生秦兼清は検非違使庁に下される。彼は事件を制止させようとしたので軽い罪となった。また、先払いを七人追放されたところ、清盛が資盛に状況を問うたので、資盛は有りのままに申した。入道は不機嫌になり、激怒して、
「たとえ、摂政、関白でいらっしゃても、浄海(清盛の法名)の孫という者に、どうして親切の心がなくてはいられようか。家貞よ、必ず資盛の恥を雪げ。」
とおっしゃる。
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