殿下事会事
(でんかことにあうのこと)
仕返しなど知る由も無い基房公は直廬(宮中にある専用の個室)へ行くべく、帝のお出ましよりも華やかに、先払いや御供のものも引き連れて、中御門・東洞院の宿所より、大炊御門を西へおいでになる。
ところが堀川猪熊の辺りで、武装した侍が三十騎ばかり走り出て来て、先払いを絡めとった。安芸権守高範だけが基房公のお車より離れる事はなかった。式部大輔長家、刑部大輔俊成、左府生師峯らは、髻を切られた。
結局、武装した平家の者達は車の物見を打ち破り、太刀や長刀を進めたので、基房公はただ、うつつの事とは思えぬ気持ちでいらっしゃった。唯一人基房公を守る高範は車を廻して、操りながら防いでいたのだが、平家方の難波経遠は太刀を振って車に近づいてくる。高範は不快のあまりに走り、
「狼藉の者達め。何者ぞ!」
と言って難波と取っ組み合いになって転んだのだが、高範はつわものであったので、難波を押え込んで握りこぶしで難波の面を殴る。
難波の郎等は主を助けようとして高範の髻を引き上げた。これに難波は力を盛り返して、主従二人がかりで手と足をつかみ、せりたおして髻を切ろうとする時に、
「これはお前への仕打ちではない。お前の主君に対しての仕打ちよ!」
と罵った。おまりにひどい事で、口では説明できないほどである。
左近将監盛佐は、馬で逃げようとしたのを打ち落とされて絡めとられた。御供の忠友は馬より降りて御車の前に進んで「お帰りなさるのが当然か」と申し上げたので、轅を廻している間に、平家の武士は鏑矢で忠友を射る。忠友はとっさに地にふせったので、矢は頭の上を通る。危うい事と見える。御供の者達は四散し、車添い二人と松の出納一人(因幡前使鳥羽国久丸か?)だけが残った。このような事は先にも無く、後にも無いであろう。
こうして、難波・妹尾の両名は帰っていった。高範は髻を切られたまま基房公の近くに参って、
「我君はいかが、いかが…」
と申し上げたところ、基房公は直衣の袖に顔を押し当て、泣く泣くお帰りあそばされた。お出ましが華やかであったのに、平家の一味に散々やられてひどい下部と共に帰られたのは悲しい事であった。摂政の位の方がこのような辛い目に遭う事はただ事ではない。
内裏には左大臣経宗、右大臣藤原(九条)兼実、内大臣雅通、大宮大納言隆季、左大将師長、源中納言源雅頼、五条中納言藤原邦綱、藤中納言資長、平中納言親範、修理大夫成頼、左大弁実綱卿が殿上に伺候されて基房公の参上を待たれていた所に、前太政大臣から内舎人安遠を使者として基房公の一件を申し上げた所、光雅が今夜の例会の延期を報告したので、先の人々は退出した。
このことはそのまま天意に逆らったからであろうか、大職冠中臣鎌足の後影が敗れ裂けた。この事件のせいかとおもうと恐ろしい。
ある秘本には、当時清盛入道は福原で自らの後世を弔っており、事件を起こしたのは平大納言重盛だと噂されたと、これとは大きく違っている。
さて、重盛はこの事件を聞くと、涙ぐんでため息を吐き、
「ああ!平家の栄華も既に尽きてしまった…」
と、ひたすら嘆かれたが、一方で清盛入道は
「基房公もこれで懲りなさっただろう」
と、喜んだ。
また、基房公の御供をしていた、多田源三蔵人と言う者は、やはり、髻を切られたのだが、一晩中切られた髪を結んで絹紋紗の狩衣を着て、特に繕って後白河院の御所に参上して申し上げたのには、
「『基房公の御供の人々が髻を切られたのは本当か』という噂も聞こえます。情けない事でございます。ああ、私、弓矢の道に携わり、雁股を逆さに装備していたといえども、髻を切られてしまいました。命を長らえて人にお会いできましょうか。私のような不肖者がお仕えしたのであのように辛い目にお遭いになったのです。」
といって、お暇をもらって出家して引きこもったのは賢く、感じ入った事である。
さて、二十二日の朝、六波羅の清盛邸の門前に奇妙な物が造ってあった。高杯に陶片を満載したものを折敷に据え、五尺ほどの坊主姿で脛をあらわにしたのが、服を脱いで腰に巻集め、箸を取って蕪汁を貫いつつ、陶片満載の高杯を睨んでいる置物が置かれていた。皆是を見たが、どういう事か分らなかった。小松殿重盛の許に人が報告した所、重盛は、
「ああ、もう、京中の笑いの種になって、こんなものが造られてしまった。造られてしまった…あれは『蒸し物にあって、腰がらみ』、つまり弱いものいじめという事よ。弓矢を執るものは戦場にて豪胆を振るうべきなのに、思いもよらず摂政の位にある人に向ったのだ。このようなおこがましいことをしでかしたので、こんなものを造って揶揄されてしまったのだ。」
と、口惜しく仰せになった。
摂政基房公はあこのようなことにお遭いになり、二十五日に院の殿上で高倉帝の元服の定めがあった。。そうして十二月九日、宣旨をお受けなさり、十四日に太政大臣になられた。十七日には喜びの言葉を申された。このことは来年の元服にあたって、基房公が烏帽子親を務める御礼である。平家の一門はもっての外だったので苦笑いしていたようである。
今回のキーワード:事件について…この事件は文中の「秘本」の説にあるように、実際は重盛の仕業だったようです。『平家物語』においては、重盛は熟慮な道徳家、対して清盛は短慮な強欲家として描かれているので、このようになってしまったのでしょう。
髻を切られること…当時、髻を結い、烏帽子をかぶる事は、成人男性としての身だしなみであったわけで、それが無くなる事は人間でない(つまり大童)ということになり、の上ない恥辱だったようです。
大職冠像…多武峯にあった物だと思われます。この御影は記録類に度々「破裂」と表現されています。
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