延慶本
(えんぎょうぼん…最古本とされる超重要本)
片仮名交じり宣命体という、少し変った書かれかたをしています。一巻(本・末)、二巻(本・中・末)、三巻(本・末)、四巻、五巻(本・末)、六巻(本・末)の、全六巻十二章という構成をしております。
第三巻(本)と第五巻(本)の奥書より、延慶二年(1309)夏から翌年正月にかけて、和歌山県は和歌山と高野山の間に位置する真義真言宗の総本山である根来寺で筆写された、平家物語諸本中最も古い本です。その古態性はこの本が『愚管抄』など、源平合戦を経て間も無い頃の史料を正しく引用していたり、「武家政権は末世の然るべき政治形態である」という鎌倉初期に考えられたイデオロギーを有している事などに見出され、原形を最も残しているといわれております。それに関していえば、灌頂巻が独立しておらず、最後が後白河院崩御と源頼朝の関東政権成立の祝福で幕を閉じているのが注目されます。
なお、原体にちかいせいか、表記が生生しさを帯びているとの評があります。それに、各種材料となった記事を膾炙しきれないかたちで纏めているため、文体がころころ変わります。延慶本を読んだ後で覚一本を読んでみると、覚一本の滑らかさが良く判ると思います。
また、読み本系の特徴の一つに、頼朝挙兵譚の詳細記述があるのですが、この場面では頼朝に付き従った者達の活躍と戦功保証が描かれていることから、この場所が、それぞれの家に伝承されていた「家の物語(戦功譚)」を纏めたものと見られているのですが、さきに挙げた生々しい表記も、これに起因しているのかもしれませんね。
ただし、書写されたのが根来寺であることを忘れてはいけません。根来寺は十二世紀に活躍した覚鑁(かくばん)という僧の一派が元になって開いたお寺です。覚鑁は高野山の聖を集めて新たな一派を形成し、高野山上に「伝法院」という学問研究所を設立します。彼の独自の教義は本寺である金剛峯寺との抗争を誘発させ、後に根来の地に退去を余儀なくされます。以後、数度にわたって高野山上で地で血を洗う抗争が続いた結果、正応元年(1288)に伝法院方の頼瑜(らいゆ)が高野山上から根来に完全撤収するに至り、この一派(伝法院方)は高野山の本寺と完全決別し、真義真言宗をひらくに至りました。
富倉徳次郎及び水原一は延慶本は承元二年(1208)〜天福元年(1233)、仁治三年(1242)〜建長四年(1252)、延慶二年(1309)付近の三回、整理校訂されていると考えましたが、この時期は丁度先ほどの抗争の最中にあたるのです。しかも、延慶本には、伝法院方の施設を登場させたり、登場人物の俊寛に覚鑁の教義を語らせたりしていることから、根来寺を含む高野圏で管理されていた影響を考えねばなりません。
●入手の仕方
平家研究者のなかで現在最も熱い諸本なので入手は困難です。白帝社などから出ている古いヴァージョン(吉沢義則校註)のはたまに見かけますが、大抵一万円以上の高値がついています。それに、このヴァージョンは誤謬が多いので有名。でも、これを改訂した勉誠社の2巻組み(柿色のやつ)のは、まず手に入らないと思っていたら、期待にこたえて第二版が出版されました。
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