一時間でわかる平家物語


巻七
(義仲の北国攻めから平家の都落ちまで)

巻八
(平家の西国流浪から義仲と平家の戦い、義仲と法皇の険悪化まで)

巻九
(義仲の戦死から義経入京、一の谷の合戦まで)

巻十
(神器返還交渉決裂から維盛入水まで)

巻十一
(屋島・壇ノ浦の合戦、平家滅亡から宗盛・重衡の処刑まで)

巻十二
(頼朝と義経の険悪化から平家の残党狩り、文覚による六代の助命と処刑まで)

灌頂巻
(建礼門院の大原入りから法皇との対面、極楽往生まで)


巻一から巻六はこちら



【巻七】
[清水冠者…北国下向…竹生嶋詣…火打合戦…木曽願書…倶利伽羅落…篠原合戦…実盛…玄房…木曽山門牒状…返牒…平家山門連署…主上都落…維盛都落…聖主臨幸…忠度都落…経政都落…青山之沙汰…一門都落…福原落]

 寿永二年三月、頼朝が木曽義仲に嫌疑をかけ十万あまりの軍勢を率いて信濃国を攻めようとしていた。義仲は慌てて乳母子の今井兼平に弁明させたが頼朝の疑いは晴れなかった。そこで義仲は十一歳になる息子清水冠者義重を差し出し、ようやく頼朝の嫌疑を晴らすことが出来た。

 そうしているうちに義仲が五万騎を率いて京に攻め上る様子なので平家は兵を集めるところ、遠江、美濃、飛騨以西、若狭以南の兵が陸続と駆けつけ、四月十七日、平惟盛らを大将軍に十万余りの軍勢を率いて北陸道を進軍する。兵糧などは道々での現地調達だったので、人民はみな山野に逃亡したのであった。さんな行軍の中でも、詩歌管弦の造詣が深い平経正らは琵琶湖のほとりから竹生島に渡りそこで琵琶を弾いて和歌を詠ずるのであった。

 木曽義仲の息のかかった拠点が越前火打が城(今庄町)にあった。ここは天嶮の要塞で難攻不落の城の中には平泉寺長吏斉明威儀師ら六千騎余りが立てこもる。これに対し平家の軍勢は攻めあぐねるばかりであったが、肝心の斉明自体が平家と気脈を通ずるものであったので、この斉名の裏切りにより城はあっけなく落ち、残りの諸将は加賀に引き下がった。そこで平家はそのまま加賀国に侵攻、篠原(片山津)において軍勢を二手に分ける。本隊は維盛、通盛を大将軍とする七万。別働隊として平忠度、知度を大将軍に三万の軍勢が能登越中国境の志保の山に向った。越後の国府(直江津)に居た義仲は是を聞き、五万騎を率いてこれを七手に分けて義仲自身は砺波山の近くに陣を構えるのであった。

 義仲は味方の数を大勢に見せかけて平家の軍を砺波山の山中に誘導し、倶利伽羅谷に突き落とす算段であったが、平家はその策のとおりに動くのであった。そこで義仲は近くに見つけた八幡社に対し、祐筆の大夫房覚明に願書を書かせて祈願する。

 この覚明、元は信救という奈良の僧であったが、かかる以仁王の叛乱において、三井寺に対する興福寺の返答を書いた人物なのである。そこで清盛のことをこと悪しげに書き散らしたので、清盛から睨まれて奈良を出て北国に落ち延び、義仲の祐筆となったのである。さすれば、覚明の願文を納めた所、山鳩が三羽飛んできたのだが、是は勝ち戦の前兆として心強いことであった。

 そして、五月十一日、計画どおりに義仲は態と膠着状態を装い、夜を待つ。そして、山頂から一万騎が時を作って平家の軍勢を谷に追い落とす。平家の軍は次々に谷に落ち行き、七万騎いた兵も僅かに二万騎あまりになってしまった。死者や捕虜も多く、さきの火打が城の戦で義仲を裏切った斉明も含まれていた。義仲の怒りに触れた斉明は真っ先に斬られるのであった。

 翌日、奥州藤原秀衡から送られてきた馬を白山に奉納したあと、源行家を助けるべく志保の山へ向う。案の定行家は平家の別働隊三万に攻め立てられているところ、義仲は二万の新手で猛烈な勢いで攻めまくる。平家はこれを防ぎきれず遂に敗退する。そして、この戦いで大将軍の知度を失うのであった。義仲は山を越えて能登国へ進軍する。

 治承四年八月、頼朝が旗揚げした石橋山の合戦で頼朝に敵対した東国武者らもこの北国の戦に参加していた。平家の劣勢を悟って源氏に付こうともしていたが、今更という雰囲気も強く、その中で斉藤実盛の死の決意を聞いて、意を同じくするのであった。

 そこで、二十一日朝、加賀国篠原にて、源平両軍は再び戦う。先ずは平家は、東国の手練の武者畠山重能、小山田有重兄弟三百騎に対して、源氏は今井兼平率いる三百騎。両者とも必死に戦い、兼平の被害も尋常ではなかったが、正午には畠山軍が劣勢となり敗退

 次いで、平家方は高橋長綱が五百余りを率いて登場するが、所詮は寄せ集めの兵だけあって、我先にと逃亡する。仕方なしに長綱も逃げるが、追ってきた入善行重に隙を突かれて首を取られる。更に平家は武蔵有国が三百騎で続くものの、深入りした有国は散々に射られて討ち取られたのであった。

 また、斉藤実盛もこの戦で手塚光盛に討ち取られる。名乗りもせずに討ち取られたのだが、その首を見た義仲が実盛と見抜いたのである。実盛は七〇の老体にも拘らず髭や髪の黒いのに不信を抱いたのだが、首を洗ってみると、その髪は白髪になったのであった。そして、実盛は宗盛から錦の直垂頂戴していたが、これは実盛の故郷越前に錦を飾って帰還するという気持ちがあったからだった。

 六月一日、叛乱平定後に伊勢大神宮への行幸をしてはどうかとの案が出される。大神宮のへの行幸はこれまでに藤原広嗣の乱平定後に一度あったが、この広嗣の霊の恐ろしさといったら、彼を調伏した玄坊の首を取って興福寺の東南に落とすという凄まじさであった。

 さて、義仲は越前の国府(武生)まで進軍していた。そこで比叡山に対する評定がなされ、六月、覚明の筆にて手紙を送ることにした。この手紙を見た大衆は僉議したものの、結果、平家の厚遇を翻し、義仲に同心することで決着、七月に入り、返答を送った。それを知らずして比叡山に願書を送ったが、源氏に翻った大衆が靡くことは無かった。

 同じく七月、九州の叛乱を鎮定した平貞能が捕虜三千を率いて上洛した。北国の戦況とは対比的である。二十二日には義仲の近江進軍がもたらされる。平家は大騒ぎの中、平知盛、重衡を大将軍に三千の兵にて出陣、平通盛、教経ら二千騎は宇治橋を固め、平行盛、忠度は千余りの兵で淀の辺りを守護する。ところが、宇治から行家、大江山から矢田義清、または摂津河内の源氏の蜂起の風聞が飛び、先の討手も直ぐに召還される始末である。そうした最中の二十四日、宗盛は建礼門院に都落ちの旨を述べる。かかる状況を察したのか、後白河法皇の姿が見えない、仕方ないので平家は安徳天皇と三種の神器を連れて西南へ都落ちを開始する。摂政藤原基通は天皇の供をする予定であったが、結局引き返してしまった。

 平家の公達もそれぞれ家族との別離を惜しんで都を離れる。平維盛もその一人で、藤原成親の娘である妻との別れを惜しみ、子の六代御前とその妹の姫君が鎧を引っ張り行かせようとしない。他の平家の者達が維盛を催促にきたが、その様子を見て涙を流さぬものはいなかった。維盛は斉藤実盛の息子の斉藤五、斉藤六に留守を頼み、落ち延びていった。こうして平家は西国に落ちてゆく際、六波羅の屋敷に火を放ったのであるが、その火は京都中に燃え広がったのである。また、京に大番役で来ていた東国武士達は都落ちの際に斬られる所であったが、知盛の計らいで東国への帰還を許され、涙して落ちていった。

 この都落ちに忠度はどうした訳か都に戻って来て、藤原俊成の屋敷を訪ねた。忠度は和歌をたしなんでいて俊成に師事していたからである。かねてから予測していた俊成は彼と対面。別離に涙しながら渡された巻物の中には忠度の歌が書かれていたのであった。後に俊成は千載集を編纂するがその時この巻物の中にあった歌を入れたということだ。但し、勅勘のひとであったので、名前は「読み人知らず」となっている。

 また経正も都に名残を惜しんだ人であった。琵琶の名手である彼は幼い頃にいた仁和寺に向かい、覚性法親王に名琵琶「青山」を渡して涙の別離をするのであった。この琵琶は仁明天皇の時に唐より伝来した内の一つで、霊験あらたかな琵琶である。

 平家一門が都落ちをする中、平頼盛は鳥羽に至った際に踵を返して帰京していった。頼朝が頼盛に対して情けを掛けていたからである。しかし、その他の源氏はどう思うのであろう。そう考えると中途半端な気持ちである。

 こうして、淀川のほとりで維盛の一族六人、千の軍勢を率いて本隊に追いつき、宗盛に遅参をなじられる。一方、九州討伐の大将軍だった貞能は淀川河口で源氏が反旗を翻していると聞いて五百騎余りで発向したもの、間違いであると知って帰京する途中でこの都落ちに出会う。貞能はこの都落ちに反対し、そのまま帰京し重盛骨を掘り、高野山に納骨した後、自らは東国に落ち延びていった。後に東国の宇都宮氏が彼を預かったということである。

 都落ちする平家一門はやがて清盛の作った福原の旧都にたどり着く。一行はここで一夜を明かし、翌日火をかけて、船の上の人となって西国に落ちてゆく。寿永二年七月二十五、平家は都を落ちはてたのである。



【巻八】
[山門御幸…名虎…緒環…大宰府落…征夷将軍院宣…猫間…水嶋合戦…瀬尾最期…室山合戦…鼓判官…法住寺合戦]

 行方をくらました後白河法皇は比叡山にいた。貴族達は我先に駆けつけ、木曽義中の五万騎が守護する中、七月二八日都に帰ってきた。帰還した後白河法皇は三種の神器を取り戻すべく、平家追討の宣旨をだした。また、故高倉上皇の第四皇子を気に入り、この皇子を即位させることにした。

 八月十日、除目が行われ、義仲は朝日将軍の号を授けられるなど、源氏には官職を与える一方、平家の一門の官職の停止も行われた。その平家は十七日、筑前国大宰府に着いたがやって来る筈の九州の諸将のうち、来た者は僅かであった。

 二十日、高倉上皇の第四皇子の即位が発表された。後鳥羽天皇である。これで都と田舎、二人の天皇が並び立つことになる。このような兄弟での天皇の位の争いとしては、かつて平安前期に、惟喬親王と惟仁親王の何れを即位させるかという際、寺院をも巻き込んで激しく争ったということがあった。一方、平家は後鳥羽天皇の即位を聞いて外の皇子も連れてくるべきだったと後悔したり、義仲が奉った以仁王の皇子を皇位を継ぐのではないかと言い合った。結局、平家は筑紫の地で内裏を建設することも無く漂っているうち、九月も半ばになり、京の秋を懐かしんでいる裏で、豊後国の藤原頼経の元に平家討伐の命が下った。頼経はこの国の豪族緒方維義にこれを下知する。この緒方維義は高千穂の明神の神体である蛇と人間の子供で、かけ離れた腕力の持ち主であった。平家は維義に対して平資盛に五百余りの手勢を添えて豊後に遣わして説得を試みたのだが不調に終わる、それどころか大宰府から退去するように要求してきた。とりあえず戦闘を開始したものの、維義には三万の軍勢を率いていると聞いたので慌てて退去し、箱崎の港から船に乗り、兵藤秀遠を頼って山鹿城に入場するが、ここも維義が攻め立てるとの噂が立ったので、門司の柳か裏に渡ったが、長門の方面から源氏が攻めてくるとの噂を聞いて、結局海の上に漂うことになったのである。幸運なことに長門国は知盛が知行する国だったので、目代が船を提供してくれた。そこで船を御所とすることにしたのである。

 一方、頼朝には征夷大将軍の院宣とそれを伝える勅使が下ったのだが、頼朝は叛乱の功労者の面目を立てて三浦義澄をもって使者を丁重にもてなしたのであった。使者のもてなし方を聞いた後白河法皇は頼朝に満足したが、反面在京の義仲ときたら、田舎生まれのせいか、無骨者で、礼儀知らずであり、藤原光高などはその無作法な振る舞いにあきれ果てたのであった。

 そうしている内、平家が瀬戸内を中心に勢力を挽回してきた旨を聞いた義仲は矢田義清に七千の軍勢を与えて閏十月、備中水島へ派遣する。平家は千艘でこれを防戦する。戦いは海戦となり、両者激しく戦った結果、平家が会稽の恥を雪ぐこととなった。

 敗戦の報を聞いた義仲は都合一万騎で山陽道を馳せ下る。そのなかで、妹尾兼康は、先の倶利伽羅谷の戦いで義仲の捕虜になったが、武勇を惜しんで倉光成澄に預けられていた。山陽に攻め入ると聞いて、兼康は案内もかねて、成澄の弟成氏を誘って故郷備中妹尾に向ったのだが、兼康は成氏を謀殺、義仲を裏切って平家方に戻り、一族郎党二千人を率いて福隆寺縄手にて義仲を迎え撃つ。そこに先発隊として今井兼平三千騎が押し寄せる。 兼平の果敢な攻めに兼康は堪らず敗退、肥満のため走れなくなった息子宗康と共に討ち死にする。義仲は備中万寿(倉敷)で勢揃えして、平家の根拠地屋島(高松)に攻め入ろうとしたところで、京から源行家が義仲を讒奏しているとの知らせが届き急いで都に戻る。行家はこれはまずいと丹波経由で義仲に遭わずに播磨の国に入る。平家の方は打倒義仲として、播磨室津の室山に二万人に一千艘の船を五つに分けて陣取る。行家は義仲と仲直りするきっかけを作ろうと思ったのか、五百余りで戦ったものの敗北し、播磨国高砂の港から和泉へ逃げ、そこから河内長野の城に引っ込んだ。平家は水島に引き続き勝利に勢いづく。

 都に戻った義仲であるが、無礼な振る舞いは一向直らず、狼藉し放題であった。法皇はこれを歎いて、鼓の名手平知康を以って諌めさせたが、義仲はその鼓をネタに知康を馬鹿にし、耳を貸そうとしないので、法皇はとうとう軍勢を集めて義仲を追討しようとした。ところが法皇の下に集まった軍勢は比叡山、三井寺の悪僧の他、浮浪者の類といったどうしようもないものも多く含まれていた。

 これを聞いて義仲は軍勢を集めるが、法皇との仲が悪くなったことを知った畿内の侍は悉く法皇の側に付き、集まった軍勢は僅か六七千人である。

 十一月十一日、義仲の軍勢が法皇の法住寺に来て見ると知康は何を考えたのか鎧も着ずに土塀に登り矛と金剛鈴を振り振り舞って呪文を唱えようとする。それを言わせまいと義仲の軍が時の声をあげ火矢を打ち込んだので法皇方は大混乱し、このなかで比叡山の明雲大僧正や三井寺の円慶長吏は首をとられてしまった。そして法皇自も捕縛され軟禁の憂き目に遭う。こうして政権を奪取した義仲は前関白の藤原基房の娘を妻にしたり、十一月二十三日には反対する公卿四十九人を解任するなど、やりたい放題であった。頼朝はこの木曽の狼藉を止めさせるべく弟の範頼、義経を派遣したが、法皇が討たれたという知らせを受け、二人はとりあえず熱田大神宮に留まったのであるが、そこに知康からの使者が遣ってきたのであるが、頼朝は知康を信用せず、追い返してしまった。

 また、義仲は平家と連合して東国を攻めようとしたが、平家側の拒絶に遭い、日本は平家、義仲、頼朝が三分した状態であり、年貢は殆ど入ってこない状態であった。このようにして寿永二年は過ぎ行くのである。



【巻九】
[生ずきの沙汰…宇治川先陣…河原合戦…木曽最期…樋口被討罰…六箇度軍…三草勢揃…三草合戦…老馬…一二の懸…二度の懸…坂落…越中前司最期…忠度最期…重衡生捕…敦盛最期…知章最期…落足…小宰相身投]

 寿永三年の正月は禄に行事も行われず、頼朝の侵攻に驚いた木曽義仲は千も満たぬ兵で宇治・勢田などの拠点を守る。対する侵攻軍は本隊は平範頼、別働隊は平義経その数六万。この戦に関して侵攻軍の梶原景季は頼朝から摺墨という名馬を拝領したが、佐々木高綱は更によい生食という名馬を手に入れていた。高綱は盗んだと言ったが、景季は腑に落ちなかった。侵攻軍の本隊三万五千が近江の篠原へ行く一方で、別働隊二万五千は伊賀を越えて宇治川に至り、渡河が開始されるが、景季・高綱がさっと前に出て先陣を切ろうとする。そこで高綱は景季に対して腹帯が伸びていると謀って言い、それを真に受けた景季をよそに渡河して先陣の名乗りをあげる。景季は悔しがったがどうにもならなかった。続いて畠山重忠勢五百が渡河完了、そのまま攻め続け木曽勢は敗退する。

 義仲は御所に最後の別れを申した後、百騎余りで六条河原に出てみると、侵攻軍が攻め立てている。その中侵攻軍の大将義経は御所に入り法皇と対面、これを守護する。こうなっては法皇を連れ出して西国の平家と合流することも出来なきなってしまった義仲は河原の侵攻軍に突っ込んで勢田の今井兼平に合流すべく東に落ち行く。その人数は僅か七騎。

 この中には、義仲がいつも連れている巴という女がいた。彼女は男勝りに武装していたが、義仲の説得によって落ち延びてゆく。その後近江粟津で二人になった義仲と兼平。兼平は義仲を逃がすため一人敵勢に突っ込んでゆく。松原へ逃れ行く義仲、深田に入って難渋しているところに矢が額を貫く。これを聞いた兼平は口に刀を貫いて馬上から落ちて自害した。一月二十一日のことである。

 翌二十二日、義仲の人事が刷新され、二十四日に義仲の首が大路を渡る。二十五日には義仲の四天王の一員、樋口次郎が梟首される。

 都の混乱の一方、平家はこの冬勢力を盛り返し、讃岐国屋島から福原に戻り、天下の要害一の谷に城郭を構える。その勢都合十万、なびく赤旗は火炎のようである。中でも平教経の活躍は凄まじく、反抗する讃岐阿波の在庁を破り、逃れた軍勢が淡路で源義嗣、義久を立てて再度反抗したのも打ち滅ぼす。伊予の河野通信と結託した安芸の沼田次郎、淡路の安摩忠景、紀伊の園部忠康らも各個撃破、背走後、豊後の臼杵維高、緒方維義と結託して、二千騎で備前今木にて再度反抗する通信を三千騎にて破る。

 対して二十九日、三種の神器を無事に取り戻す命を帯びた範頼、義経率いる平家追討軍が京を出発。一方平家は二月四日福原の都で亡き清盛の仏事を行い、その上で除目を行う。平将門の乱とは違って三種の神器があるのでこれも間違ったことではない。京に残った平家関係者も俄然勇気付けられる。

 そこに追討軍は七日開戦と定めて、範頼率いる本隊五万は摂津[山昆]陽野(伊丹市)に、義経率いる別働隊一万は丹波廻りで丹波と播磨の国境三草山の麓に到着する。この三草山の勢には平家方から平資盛を始めとして三千が対峙する。夜に入り田代信綱の進言で源氏は夜討ちをすべく近隣在郷に火をかける。夜討ちを想定していなかった平家の軍勢はこれに驚いてとるものとりあえず背走、高砂の港から屋島や福原に落ち延びる。敗戦に慌てふためく平宗盛に、教盛が大将軍を買って出る。そこに源氏の本隊五万は生田の森までやってきてにらみ合う。別働隊の義経の方は土肥実平に七千の兵を与え一の谷の西へ向わせ、自分自身は僅か三千騎で一の谷の背後に回る。武蔵坊弁慶が連れてきた地元の猟師によると、ここから崖を下ることなど、鹿ならともかく馬など到底無理であった。

 義経についていた熊谷直実、直家父子はここから崖を下るとなると先陣の功などあったものではないと思い、密かに一の谷の西に回り、夜陰にまぎれて土肥実平の陣の脇を通り、位置の谷の城門に至った。すると後ろから、これも功名に駆られた平山季重が続いてきた。直実は夜が明けるほどに大音声で名乗りをあげる。そこに平家は城門を開いて打って出て直家に負わせる。矢に注意する直実、その馬の勢いは激しく誰も寄り付こうとはしなかった。結局城門が閉められ、熊谷はそれ以上攻めることは出来なかった。そこで土肥実平の七千が西の城門に押し寄せる。生田の森の本隊の方も河原兄弟の先陣で口火が切られ、梶原景時親子三人が第二陣を駆ける。そこに義経は北の崖鵯越から、先頭をきって一気に駆け下りる。その威勢は三千の兵であるのが十万にも見え、平家の軍勢は一気に震え上がり、船で脱出しようと慌てて乗り急ぎ大混乱。歴戦の猛者教経もこれにはどう思ったのだろうか、明石の港から屋島へと落ち延びる。

 東西の城門から東国勢が攻め寄せて大混乱の中、鵯越の麓を守っていた平盛俊は逃亡を諦めて敵を待っていた。そこに源氏の猪俣則綱が押し寄せる。取っ組み合いになって力の勝る盛俊が則綱を押さえ込んだのだが、則綱は弁舌を以って盛俊の降伏を勧め、一命を取り留める。そこに味方の源氏の軍がやってきたのでこれは好機と油断した盛俊の首を掻いた。これが一の谷の功名の筆頭である。

 平忠度はお歯黒を付けていた為平家の公達であることを悟られて岡部忠純が討ち取る。当初誰かもわからなかったのだが、箙につけてあった一編の和歌からこれが忠度であることが判ったのである。

 平重衡は須磨まで落ち延びたところで、味方の後藤盛長に見捨てられ、腹を切ろうとしたところを庄高家に生け捕りにされる。

 平家の敗色が濃厚になり、なんとか敵将と組もうと必死の熊谷直実は、船へと逃げる平家の若武者を発見、これに取っ組んで押し倒すが、この若武者は昨日負傷した自分の息子と同じぐらいある。憐れを感じた直実は助命し様と思ったが、後ろから味方の軍勢が押し寄せたので、泣く泣く首を切った。この若武者は所持していた笛から平経盛の息子敦盛と判ったが、この事件を機縁に直実の菩提心は高まったのである。

 このように平家の公達が次々討ち取られる中、生田森の大将軍を務めていた平知盛は親子主従三騎で沖の船に乗ろうとする。そこに源氏の兵たちが押し寄せ、首を取ろうとしたが子息知章が身代わりになって逃れることが出来た。宗盛をはじめ、これを聞いて涙を流さぬものはいなかった。

 その他重盛の末子師盛や教盛の兄通盛らも討ち取られ、この軍で取られた首は二千余り、討ち取られた大将十人ということである。船にて敗走する平家の軍勢は波に揺られて四方に散ってゆく。今度こそはと意気込んでいただけにこの敗戦は大きな痛手であった。

 やがて敗戦の報が平家関係者にもたらされる。船の上で帰りを待っていた通盛の妻小宰相殿は夫の戦死を聞いて歎き悲しみ、身重であるにもかかわらず、入水し果てたのである。この小宰相殿というのは通盛が中宮亮であったときに見初めた女房であった。この戦いで通盛や業盛を亡くした父の教盛にとって、頼りにすべき子供は教経と僧仲快だけになってしまった。



【巻十】
[首渡…内裏女房…八嶋院宣…請文…戒文…海道下…千手前…横笛…高野巻…維盛出家…維盛参詣…維盛入水…三日平氏…藤戸]

 寿永三年二月十二日、先の一の谷の戦の首が大路を渡された。公卿についた人の首を大路を渡すのは先例が無いと反対の声があがったが、源義経が父祖の恥を雪ごうと、強く奏上したので決行となった。都に残った維盛の妻は気が気でない。世話をしている斉藤兄弟が首渡しに見に行ったが、それらしき首は無い。事情を良く知る男に聞いたところ、、重盛の子孫はその殆どが屋島に落ち延びたこと、肝心の維盛は病気のため参戦せず、屋島で臥せっていることが判った。これに対し、心で通じていた維盛は妻に和歌を送る。

 捕虜になった平重衡は京に送られ土肥実平に預けられ、三種の神器返還と引き換えに身柄を解放するという法皇の宣旨を受ける。戸惑う重衡に以前つかえた木工右馬允知時が参上し、重衡と交際があった内裏に仕える女房と和歌のやり取りを取り持った。この女房は重衡の死後、後世を弔うべく尼となったということだ。

 そして、神器と重衡の交換宣旨が屋島にもたらされる。平家の人々が僉議するなか、母の二位尼が涙ながら条件を飲むように懇願するが、神器の効力や一族全体の利益、及び重衡送還の可能性の薄さから、申し出を拒否、法皇の使者に焼印を施して追い返した。交渉の結果を聞いた重衡は奈良を炎上させた呵責も相俟って、出家を願うが、容れられないので、とりあえず法然上人を呼んで戒を授けてもらうことにした。

 そうしているうちに、重衡を鎌倉に連行する命が頼朝より下された。東海道を下ってきた重衡が頼朝の前に引き出されるが、重衡の言い振る舞いに頼朝以下心を打たれ、狩野介宗茂に世話をするように命じた。宗茂は重衡の慰めに、千手という白拍子を遣わした。重衡は千手の振る舞いに痛く感動し、その夜は千手と共に過ごした。この千手は重衡死後、尼となり菩提を弔ったということである。

 一方、屋島に居ながら思うことは京に残る家族のことばかりであった維盛は寿永三年三月十五日、僅かの供を連れ、小船にて屋島を抜け出した。やがて紀伊の港(和歌山)に到着した維盛は今更都に帰っても恥を重ねるだけだとして、一路高野を目指し、滝口入道、という聖を頼る。この聖は、斉藤時頼と俗名を名乗っていた時、付き合っていた横笛との関係を父から反対されて、それが機縁で、すがる横笛を振り捨てて高野山に入った人物である。

 滝口入道の案内で高野山を巡礼した維盛は出家の決意をし、二人のお供を都に返そうとするが、二人は主君に従う情が強く、結局二人とも出家したのである。山伏修行者の格好に身をやつした一行は、滝口入道を連れて、高野山を後に、各王子を通って熊野に向う。そして熊野三山の巡礼を済ませた後、那智の南、浜の宮から船を出し、沖にて念仏を唱えた維盛は入水して果てたのである。この知らせを聞いた宗盛らは、頼盛と同じく裏切って京に帰ったと疑っていたのを止め、悲しみに沈んだのであった。

 その平家を裏切った頼盛は元暦元年五月、頼朝から鎌倉へ招かれた。頼朝は平治の乱の時、頼盛の母に助命された恩を感じて様々にもてなす。六月に入って頼盛が帰京すると、彼の所領を保証した上、大納言の位につけたのであった。この六月には平貞能の叔父定次が伊勢伊賀の兵を率いて近江に侵攻するが、直ちに鎮定された。人はこれを三日平氏と呼んだ。

 そうしているうちに、維盛入水の報告が京に隠棲している維盛の妻にもたらされる。維盛の妻は深く歎き即座に髪を下ろしてかたちばかりの法会を行った。この維盛入水の噂は鎌倉まで伝わり、頼朝はこれを聞いて残念に思ったのであった。

 屋島の平家一門は東国勢が攻め渡るとも、九州の水軍が攻め上がって来るとも聞き、恐れおののく、今となっては四国のものを味方につけようと頑張る阿波重能だけが頼りである。

 六月二十六日に神器無しで後鳥羽天皇が即位し、八月には範頼、義経に新たな官位が授けられる。その上で九月に入って範頼は平家追討のため三万の兵を率いて播磨室津に軍を進める。対する平家は資盛を中心に五百艘で備前国児島に向った。これを聞いた追討軍は更に軍を進め備前藤戸(岡山市)に至る。平家の陣は船でしかたどり着けない場所にあり、船を用意していなかった源氏は難渋したが、先に漁師から浅瀬の場所を知った佐々木盛綱は抜け駆けして海の中に馬を進める。この抜け駆けに引き続いて三万の軍が平家の陣に押しよせ、平家は堪らず船にて屋島に戻る。源氏は船の用意が無くこれを追う事が出来なかった。このまま攻めつづければ平家は滅ぶところであったものを、範頼は室、高砂の遊女達を集めて連日遊びに耽った。こんな様子で国の疲弊、民の困窮のみあるなかで、この年も暮れてゆくのであった。




【十一巻】
[逆櫓…勝浦 付大阪越…嗣信最期…那須与一…弓流…志度合戦…鶏合 壇浦合戦…遠矢…先帝身投…能登殿最期…内侍所都入…劒…一門大路渡…鏡…文之沙汰…副将被斬…腰越…大臣殿被斬…重衡被斬]


 元暦二年正月、後白河法皇から平家追討の宣旨を賜った源義経は、翌月二月三日摂津渡辺(大阪)の港から屋島へ、範頼は都から山陽道へ軍を進めた。義経は渡辺から出航しようとしたものの、大風でなかなか出航できない。さらに味方の梶原景時とも口論して、険悪な雰囲気が漂っていた。痺れを切らした義経は、荒れ模様にもかかわらず、漕ぎ手を脅して強引に四国に渡ろうとする。その甲斐あってか、三日かかるところを六時間で渡る事に成功、阿波の地に上陸した。

 阿波に上陸した義経は近隣の武士を一人呼んできて案内をさせ、近くで敵対する桜間能遠を鎧袖一触に討ち、夜も厭わず阿波と讃岐の境大阪越の山を越える。その夜、宗盛の妻が宗盛に宛てた手紙を奪い取り、翌二月十六日讃岐国引田で小休止してから屋島へと進軍する。

 屋島では阿波教能が三千騎で伊予から河野通信が攻め来たのを撃退して送ってきた首を平家一門は実検をしているところであったが、義経侵攻の知らせ受けてあわてて船に乗る。しかし、相手が七八十騎であると踏んだので、教盛は再上陸し、連れてきた平盛嗣は義経を罵倒する。すると彼の胸板に源氏方、金子与一の放った矢が突き刺さる。そこで船軍に切り替えた教盛は、雨のように矢を射る。義経を射させまいと一騎当千の侍達が前に出て防ぐが、とうとう佐藤嗣信が射られる。それを見た教盛の童、菊王が首を取ろうとするものの、嗣信の弟が首をとらせまいと菊王を射抜く。教盛が菊王を救出し船まで連れるが重傷であったのでやがて息を引き取ってしまった。

 その後、阿波讃岐の反平氏勢力が集まってきたので、義経の勢力は三百騎余りに増えた。そこで夕暮れ時になったので勝負は明日に決しようと思ったとき、平家の船の中から美しい女房が出てきて、竿の先に扇を取り付けたのを船先に立てた。これを射てみよとのことと判断した義経、那須与一宗高に命じる。宗高が辞退すると義経は激怒する。そこで宗高は神仏に祈り弓を放つ。弓は見事扇に命中し、両軍から喝采を受けた。

 それにつられて船の上で舞を舞った老武者をも射抜いたことから戦いは再開した。仇をうとうと藤原景清をはじめとした武者が陸に上がり強力の景清は敵の兜のしころを引きちぎり大音声を上げる。一方義経は深入りしてしまい苦戦する所に、弓を落としてしまう。それを周囲の言うことも聞かず持ち帰る。名誉のためであった。こうして戦いは日が暮れて一旦終結となった。平家の方はこの夜夜討ちをかけようとしたが先陣争いをしているうちに夜が明けてしまった。

 平家は船で志度の浦に至る。義経が八十騎を厳選して是に追いつく。少勢の源氏に平家は戦いを仕掛けようとするが、追いついてきた源氏の兵を見て驚いて逃げ帰る。そこに、先に河野通信追討のため伊予に遠征していた田内教能が三千騎を引き連れ屋島へ戻ろうとしていたのが見えた。これに対し、源氏方の伊勢義盛は平家は滅亡したと嘘をつき、教能の投降に成功したのであった。同じくこの二十二日には義経と険悪になった梶原景時ら後発の軍が屋島に着いたが、もはや勝敗が決着したあとであった。

 その後平家は長門の彦島に流れ着いた。しかし、平家方の水軍であった熊野の湛増も鶏合の結果鞍替えし、二百艘を率いて源氏に付く、河野通信の水軍百五十艘も合流して源氏は都合大船を含んで三千艘にもなった。そして元暦二年三月二十四日午前六時に門司赤間関(下関)間での開戦が決定された。

 ところが、その夜、源氏の陣中では、先陣を所望する梶原景時と自ら先陣を切ろうとする義経との間で諍論が起き、あわや同士討ちかと思われた。結果、三浦義澄と土肥実平が間を割って事なきを得たが、このことから景時は義経を恨み、頼朝に讒言を為したという。

 そうして両軍は壇ノ浦にて対峙する。両者の間は約三キロ。潮の流れが速いところで思ったように動けないが、その中で景時が敵船に進入し撃破したところから戦いが始まった。平知盛はこれが最後の戦いと檄を飛ばし、否が応でも士気が盛り上がる。その中で元気が無かったのが阿波重能であった。重能は裏切りの嫌疑がかけられ、知盛は斬り捨てようと思ったが宗盛の許しが出なかったので出来なかった。

 軍の方は第一陣の兵藤秀遠率いる五百艘が奮闘して平家有利に展開していった。

 丘の方から参戦する源氏もいた。その一人和田義盛は三百メートル先の平家の軍船に遠矢を放つ。意外にも平家方に射返す者がいた。仁井親清である。これに対し義経は阿佐里与一に返し矢を命じる。与一の放つ矢は見事親清の立つ真中に命中する。

 また、このときイルカが一二千頭平家の方に向ってきた。宗盛はこれを占わせるが凶と出る。そこに阿波重能がやはり裏切った。おかげで平家の公達が実は粗末な船にいることがばれてしまう。知盛は後悔したがどうしようもなかった。とうとう平家一門の船に源氏の侍たちが乗り込んできた。知盛の返答で戦況を知った二位尼は安徳天皇を連れ出し、神器のうち神璽と劒を携えて入水する。これを見た建礼門院も入水するが渡辺眤に引き上げられてしまった。

 鏡の方は重衡の妻が持ち出して、沈めようとしたが、転倒してしまい、その隙に取り押さえられてしまう。

 そして、、教盛、経盛兄弟、重盛の子資盛、有盛その従兄弟行盛らは手に手を取り合って海に沈む。ところが総大将の宗盛親子は入水に躊躇している。これを見て侍達は突き落としたのだが、彼らは水泳の達人でそうこうしているうちに伊勢義盛に生捕られてしまう。教経は道連れにする源氏の大将を探していたが、誰も寄り付こうともしない。そこに安芸実光兄弟が襲いかかる。教経は彼らを道連れに入水する。知盛も乳母子と共に沈んでいった。

 こうして壇ノ浦の戦いは終結し、四月三日義経は法皇に事の次第を報告した。

 しかし、印璽は浮かび上がったところを発見されたものの、劒は結局見つからなかった。この天村雲の劒はスサノオが八つの頭をなした大蛇の体内から発見し、宝としたものであるが、このように発見されないのを、ある博士はこの大蛇が安徳天皇となって取り返したのであると説明づけた。

 二十六日、宗盛をはじめとして生け捕りになった人々が京に連れてこられた。食事も喉を通らない宗盛だったが、子供の清宗に袖をかけてやったのを見た監視の侍達は、恩愛の絆に涙をぬらした。

 二十八日は頼朝に従二位の位が授けられ、また、鏡が元の場所に戻ってきた。この鏡はもとは天照大神が自分の姿を後世まで残そうとした鏡である。一度焼けかけたことがあったが、その時は不思議なことに鏡自ら火の中から飛び出してきたのだった。

 生け捕られた公達のなかには平時忠親子も含まれていたが、時忠は見られては不都合な書状の入った箱を義経にとられてしまったことを歎いていたが、一計を策して、娘を義経に差し出して、その娘から書状を受け取り、これを焼却した。しかし、時忠と縁付いた義経を頼朝は不満であった。

 宗盛は五月七日に鎌倉へ連行されると聞いたところ、息子の副将こと義宗との面会を許される。しかし、義宗はその後、義経の命により六条河原にて殺害されてしまった。その五六日後、義宗を世話した女性と乳母がその首を抱いて溺死したのが発見される。

 こうして宗盛は鎌倉に連行されて行ったのだが、義経は頼朝の怒りを買って、宗盛の受け渡しの後腰越に追い返された。景時が讒言したからである。義経は誤解を解いてもらうよう書状を送った。

 さて頼朝と対面した宗盛は、卑屈な態度を見せ、失笑を買う、義経のほうにはこれという返事も無く、宗盛を京に連れ帰るようにと言われただけであった。六月九日のことである。

 結局宗盛は近江国篠原で首を斬られたのだが、最後まで恩愛の絆に縛られた死に様であった。一の谷の合戦で捕虜になっていた重衡も興福寺の大衆の再三なる要求に身柄を渡され、奈良へと護送される。その途中で妻との再会を果たした重衡は、大衆の僉議の結果、木津の辺りで首を刎ねられたのである。



【巻十二】
[大地震…紺掻之沙汰…平大納言被流…土佐房被斬…判官都落…吉田大納言の沙汰…六代…泊瀬六代…六代被斬]

 平家が滅亡し、やっと穏やかな世の中になったと思った矢先の七月九日、大きな被害をもたらした大地震が起こる。安徳天皇や平家をはじめ、怨霊は恐ろしいものであると人は噂した。

 八月二十二日、文覚が頼朝の父義朝の髑髏と称する物を持って、鎌倉に下ってきた。実は先に頼朝に見せた髑髏は頼朝に謀反を起すための方便であった。頼朝はこの髑髏を受け取り、亡き父のために寺院を建立した。

 九月二十三日京に捕らえられていた平家の者にたいする処遇が発表され、時忠の能登国をはじめとして、その多くが流罪となって、各地に散っていった。

 一方、梶原景時に讒言されてから頼朝に睨まれている義経に対し、頼朝は土佐房昌俊に暗殺を命じた。しかし、義経は昌俊のたくらみを見抜いてしまう。昌俊は誓紙を書いて一命を留める。それでもなお殺害をたくらむ昌俊に対し、義経はこれを捕え、その首を刎ねたのであった。内通者によってこの報が頼朝にもたらされると、頼朝は遂に範頼に討伐を命じるが、範頼が辞退したので最後には殺されてしまう。代わって北条時政を大将として追討軍が派遣されると、十一月二日、義経は強引に法皇から宣旨を出させ、味方となった九州の武士達とともに、大物浦(尼崎)から出航するものの、強風に押しやられて断念、その後各地を転々とすることとなった。そして十一月七日、時政率いる義経討伐軍が入京して、法皇はすぐに今度は義経追討の宣旨を出すのであった。

 この事件に関して頼朝は朝廷に対して総追捕使と追捕のための兵糧米の供出を要求した。法皇は過分なことだと反対したが、公卿達の僉議の結果可決した。頼朝はこの手の問題については、いつも吉田経房に相談していたのである。

 時政の入京後、平家に縁付く者達に懸賞がかけられて各地で捜索が始まった。斉藤兄弟に匿われている維盛の息子六代御前とその母は、大覚寺の北、菖蒲谷というところに隠棲していたが、密告されて六代は連行されてしまう。歎き悲しんだ母は高雄の神護寺の上人文覚を頼りにする。話を聞いた文覚はこれを承諾し、頼朝と交渉べく鎌倉に向う。これにより二十日の猶予を得た親子は日頃信心している長谷の観音のご利益であると涙を流す。しかし、二十日たっても帰ってこない文覚に痺れを切らした時政は六代を連行して鎌倉へ向う。何とか鎌倉につく途中で文覚とあえばよかったが、その気配無く駿河の千本松原まで着てしまったので、これ以上はどうしようもない時政は六代の処刑の準備をする。あわやと思われるところで、文覚が赦文を引っさげて登場。間一髪で六代の命は助かるのであった。

 時政は六代を連れて都に戻る途中で鎌倉からの使いが追いつく、義経に同心しているとして源行家と義憲を討てとのことであった。早速甥の時貞に討伐を命じ、行家の宿が天王寺にあると知り、は天王寺に軍を派遣するが、既に行家が出発した後だった。行家は熊野を目指していたが、連れの足が良くないので河内の八木に宿を取っていたが、宿の主人が在所を密告してしまう。これを聞いた時貞はとりあえず常陸房正明という比叡山僧にこの役目を命じた。正明は行家が滞在する宿にたどり着き、乱闘の末、行家を捕縛、行家は淀の赤井河原で処刑される。一方の源義憲も醍醐から伊賀に逃亡した後、自害に追い込まれたのであった。

 時がたち、やがて六代は十四、五歳にもなった。頼朝は六代を生かすことに反対であるが文覚は反対する。このことを聞いた六代の母は六代の出家を急がせ、文治五年春、十六の年で出家し、修行者の格好をして巡礼の旅に出るのであった。

 一方重盛の子、忠房は屋島の合戦の後に落ち延びた末、紀伊国湯浅で平家の残党と共に旗揚げした。一時は追討の軍を悩ませたが、追討軍が厳しく包囲した後、助命すると謀って投降させた後、処刑した。

 これも重盛の息子宗実は大炊御門家に養子になっていたもの、追い出されて俊乗房重源を頼りにしたが、頼朝に関東下向を命ぜられて、それからというもの食事を断ち、箱根湯本で絶命した。

 建久元年十一月七日、頼朝上洛、建久三年三月十三日、法皇がとうとう崩御、享年六十六.建久六年には大仏再建の供養の為に再び上洛、平家の残党に命を狙われるも無事であった。残党狩りの結果、平家の子孫は絶えたと思われたが、知盛の末子知忠が生き残って都に隠棲していた。しかし、これも建久七年十月討ち取られてしまう。平家の侍平盛嗣も、但馬国で婿となって暮らしていたが、守護地頭に怪しまれやがて捕縛され鎌倉に連行された上処刑された。

 その頃後鳥羽天皇は宴会ばかりしていたので、文覚は兄の守貞親王を位につけようと画策する。それでも頼朝が生きているうちは動けなかったが、建久十年一月十三日、頼朝が亡くなると謀反の色を顕わにし、八十余りの歳にて隠岐国に流罪となった。これに対し文覚は後鳥羽天皇に対し、呪詛の言葉を残すが、やがてその言葉どおりに承久の乱で隠岐に流されることとなった。

 文覚の弟子となった六代は高雄で仏道修行に励んでいたものの、文覚の死後、結局は関東に連行された後処刑されてしまった。しかし、十二の時に死んでいたはずの命を三〇余りまで永らえることが出来たのは偏に長谷の観音のご利益であるという。この六台の処刑を以って、平家の子孫は永久に絶えてしまったのであった。



【灌頂巻】
[女院出家…大原入…大原御幸…六道之沙汰…女院死去]

 壇ノ浦で入水したものの捕縛された建礼門院は東山の麓の吉田の地に隠棲していたが、文治五年五月一日、遂に髪を下ろした。お布施は安徳天皇の着物であった。これは現在でも長楽寺に残っている。人生を回顧して悲しむ一方の中、七月九日の大地震で住まいも住めなくなってしまった。

 結局建礼門院は人目につきやすいこの地を離れ大原寂光院に入ることになった。平家の霊魂を祈っても思い出すのは安徳天皇のことばかりである。

 そんな中、文治二年四月の下旬、後白河法皇が寂光院を訪ねてくる。花摘みから帰ってきた建礼門院はこの予想外の訪問者に戸惑うがやがて対面し、自らの人生を六道に譬える。夕暮れにもなれば、そうしているわけにも法皇は行かないので帰っていった。

 その後も建礼門院はその後も平家の菩提を祈った末、建久二年の二月中旬、往生を遂げたのであった。


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