平家物語と史実

かつて、平家物語は歴史叙述であると考えられていたこともありました。

にほんの平家というイストリア(histrie)(天草本『平家物語』)
右平家十有二冊者、我朝之史記、而示ニ国家之興廃、論ニ人事之盛衰、勧善懲悪の書也。(流布本『平家物語』)

『大日本史』『参考源平盛衰記』にも、平家物語を史料として扱っておりました。
但し、平家物語の記述がそのまま史実として受け止められていたとは限りませんでした。
今川了俊が『太平記』を非難した『難太平記』には、

平家は多分、後徳記のたしかなるにて書きたるなれども、それだにも、かくちかひめありしかとや、まして此記(『太平記』)は十が八九はつくり事にや。大かたちがふべからず。人々の高名などの偽おおかるべし。

と書かれ、先ほど挙げた『参考源平盛衰記』にも、歴史史料として挙げるものの、『愚管抄』『玉葉』などの史料とは差異を示しています。
明治に入り、新たな歴史学が導入されるとともに、平家物語の史実性が改めて疑われるようになりました。その中でも、星野 恒は明治23年、『史学雑誌』に「平家物語・源平盛衰記考」、明治31年同じく『史学雑誌』に「平家物語・源平盛衰記は誤謬多し」を発表し、嘉応二年(1170)非礼のために藤原基房から一族平資盛がお仕置きを受けたのに対して復讐をした人物を、『玉葉』では平重盛とするのを、平家物語「殿下乗合」では平清盛にしていることなどを指摘して、平家物語を史実と見ることは間違いであると主張しました。

こうして、史料としての平家物語が疑わしいものとされたのに対し、文学者たちは、この主張を認めざるを得なくなったものの、文学性は失われるものではないとし、明治25年を境に、文学史の中では、『平家物語』『太平記』といった作品を、軍記・軍物語・軍記物語・戦記・戦記文と呼ばれるようになったのでした。

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