幸若舞と権力者
能と同じく、芸能として大成するにはパトロンが必要でした。
先の幸若流のところでも述べましたが、幸若流をはじめ、曲舞を生業とする芸能者たちは、次第に権力者、つまり戦国武将とのつながりを深めてゆきました。
戦国武将は寺社に崇敬を寄せ、利用支配していったと言う関係から(中には、信濃諏訪氏…諏訪社の神主、肥後阿蘇氏…阿蘇の大宮司。大和筒井氏…興福寺の官
府衆徒のように、戦国武将そのものが寺社関係者であった例も有る。)曲舞と城主や領主の権威につく可能性が出てきました。
○北条氏との結びつき
室木氏が研究されています。
・相模平塚の鶴若孫藤次…恐らく偽文書と思われる頼朝と梶原景時の花押のある判物を持ち、鶴岡八幡宮所属の舞々で相模八郡の舞々の元締め。永享五年
(1433)足利持氏の花押を持つ判物を持ち権力者に接近したようです。
・足柄下郡古新宿町の天十郎太夫…大永八年(1529)に北条氏綱からの判物に舞々・いたか・陰陽師を取り締まり、役銭を取る権限を与えられ、領主の来客
接待としては舞を舞う。
・足柄下郡荻窪村の大橋治部左衛門嘉義…北条氏の舞太夫となり、北条氏政から政の字を貰い義政と改めたり、勧進の舞々の認可を得たりしている。室木氏はこ
う言っています。「(大橋の演じた曲について)「与市」にしろ「馬揃」にしろ、武将にふさわしい祝儀性を持つ作品である。舞曲成立の要因が奈辺にあるかを
暗示するものといってよい」
○若狭武田氏とのつながり
『蔭涼軒日録』延徳三年(1491)六月二〇日条には「武田彦次郎殿奉一献。若州九世舞用意之。」とあるが、若狭は若狭武田氏の領地であった事から、武
田彦次郎が若狭から曲舞を呼んできたのではないでしょうか。さすれば、この記事は曲舞と戦国大名の繋がりを示す早い記事となります。
○信長・秀吉・家康の「幸若」寵愛
『信長公記』『宇野主人日記』天正10年(1541)五月十九日、安土の惣見寺で幸若八郎九郎の曲舞と丹波猿楽の梅若大夫とを競わせて、曲舞を大いにこ
のみ、その後朱印状を与え、続く柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも是に倣って「幸若」に対して知行安堵状を与え(三木・本能寺・金配の三曲は秀吉による命
によって作詞作曲されたようです。)徳川時代もそれに倣いました。現行の曲目に源氏関連のものが多いことも一考すべきでしょう。
また、毛利家本の由来を考えてみましょう。毛利輝元が家臣をわざわざ越前の幸若家に派遣しています。幸若流が権力者との繋がりの中で舞の家の家元的存在
となり、曲を管理する家として君臨していたことが伺えますね。
しかし、この権力者との結びつきは、江戸時代において、この芸能の寿命を短くした原因でもあったのです。
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