幸若舞の担い手
さまざまな芸能者たちが、幸若を育ててきました。


【曲舞(幸若舞)と声聞師 のかかわり】

  六角堂クセ舞見物之。与八男也。□□近江河内義乃(美濃?)八幡声聞衆等上京。」『康 富記』応永三〇年(1423)年十月一日条

 白拍子を母体とした芸能の曲舞(後の幸若舞)ですが、その担い手の多くは、幸若一族もこの流れを汲むとされる、声聞師(しょうもんじ・しょもじ)と呼ば れる芸能者でした。上の記事は彼らが曲舞を舞った初見とされる記事です。

 玄問曰。サテ舞々ハ 何比ノ者ニテ候哉。夫答曰。伝承ニ今ノ舞々ト申者。世間ヲ往 来スル声聞師カ。仏菩薩ノ因縁ノ唱テ人ヲ勧ル字ノ源平已後、両家取合非(悲)て。是喝人の心ヲ喝。一人ノ心ヲ慰ル。是今ノ舞々也。(『旅 宿問答』永正四年(1507)奥書)

 上の記事からも、声聞師のありようが見えてきますが『日葡辞書』では、以下のように整理されています。

・《xomonji》…舞をする呪術者や占い師のような者で、祈祷や呪術をなどを行う者

 声聞師は寺院や特定の家に隷属し、曲舞をはじめとした芸能の担い手であると共に、陰陽道に従事し暦を作成したりしていた者達です。しかし、声聞師という 呼称は貴族など上からの呼称であって、彼ら自身も声聞師と言っていたのかは不明です。また、「唱門師」と表記されることがあり、そこからは門付をする者達 であったことは伺えます。
 なかでも興福寺大乗院に隷属していた五ヶ所十座という声聞師は大和国に強力な力を持っており、造園。築地などの土木工事や物資運搬に携わりつつ、所謂七 道者とよばれる声聞師芸能の総元締めでありそこに経済的基盤を持っていました。

※(参考資料)
『大乗院寺社雑事記』寛正四年十一月二三日条
七道者。猿楽。アルキ白拍子。アルキ御子。金タタキ。アルキ横行。猿飼。以上。
『大乗院寺社雑事記』文明九年五月三十日条
一切声聞之沙汰条々、陰陽師・金口・暦星宮・久世舞・盆彼岸 経・毘沙門経等芸能、七道物自専事…

 それでは、声聞師というキーを踏まえた後で、諸記録に見える、曲舞の担い手を見ていきましょう。

【二大流派…幸若流と大頭 流】
○幸若流
 白山神社と関りのある越前丹生郡西田中(現鯖江市)出身の芸能一座です。室木氏は西田中は元は院内(いんない)村と呼ばれた声聞師の村とし、麻原氏は後 に家の名前ともなった、八郎九郎という名前は声聞師の名前として見られたとしています。

 江戸時代の由緒書きでは、南北朝期に活躍した武将桃井氏の没落した末裔で、幸若は末裔桃井幸若丸が延暦寺の稚児として舞を舞ったところ、後柏原天皇の寵 を得たことからとしていますが(江戸時代の幸若舞を参照してください)、室木氏によると、幸若という名前は幸春・幸鶴・幸福・幸菊とひとしく「幸」の字を 用いる、この地方の一特色であったようです。

 「○○声聞師」といったような書き方ではなく「幸若大夫」という書式で登場するので、寺社に従属する声聞師より一個の芸道の家として独立していたのでは ないかと見られています。

 初見は『管見記』嘉吉二年(1442)五月二十四日。八日の南庭でのくせ舞、二二日の推参での曲舞に対して「幸若大夫」がお礼に来た記事ですが、この舞 について「号之二人舞」とあることは幸若流の舞が二人で舞う事を基本としていた事を示しています。(現在は3人)他の団体と異なり古くからずっとコンスタ ントに公演を続けている、大きなグループです。

 川崎剛志氏の「曲舞と幸若大夫」(『幸若舞曲研究』第七巻)によると、文明十一年(1479)の幸若大夫による勧進曲舞は前年盛大に行われた観世の勧進 猿楽に匹敵するものであり、曲舞愛好家細川政之が後ろから幸若を支えているものであったようです。また、長享二年(1488)七月の興福寺主催の元興寺極 楽坊の幸若大夫による勧進曲舞は、先に挙げた、興福寺の下で権勢を振るっていた大和五ヶ所十座寺をおしのけて、寺を挙げての催しでありました。勧進で集め た費用は幸若の禄物となっていたとされ、この両者の事例から、応仁の乱前にはすでに幸若流は他を跳ね除けて確固とした地位を築いており、他は追いつくだけ であったと考えられ、そのような状態であったからこそ、演目の固定化、共有化が行われたとします。

 幸若八郎九郎義安が信長をはじめとした戦国大名をパトロンとする事に成功し、曲舞の代表的家となり、幸若舞を確立させました。
 
 「幸若舞」の言葉の初見は『上井覚兼日記』天正十二年正月二十四日条。中央での初見は『輝元公上洛日記』天正十六年(1588)八月十四日条になりま す。つまり、このころには、名実共に他の「曲舞」団体から一歩抜け出た存在として確立していたことがわかります。

 武家としての待遇を受けた幸若家は武家の式楽を担当する役となり、他の曲舞の担い手と一線を画する運命をたどります。(後述)幸若家は八郎九郎家とそこ から派生した小八郎家、そして養子から入ってきた弥次郎家の三つの家で構成され、江戸幕府の将軍に対する舞は三家が輪番で担当していました。

○九州の幸若
 『上井覚兼日記』は島津家の武将で芸能は武家の嗜みである言った上井覚兼によって書かれた日記ですが、そのなかに九州の地で活躍する幸若与十郎や幸若弥 左衛門という曲舞が、天正十一(1583)年を中心に活躍した記録があります。かれらも上の幸若一門であるならば、幸若一族のテリトリーはとても広いもの だったと想像できます。

○大頭(だいかしら)流
 『御湯殿の上の日記』永正十三年(1516)二月十三日条からみえはじめるグループです。『言継卿記』は京の者としています。
現在唯一残る福岡県山門郡瀬高町大江の舞は、この大頭流です。

 『雍州府志』「古跡」では幸若と同じくして比叡山に入った岩松家の稚児が始めたという伝承があり、また『和漢三才図絵』「芸能」では、幸若・笠屋と共に 舞の流派として認知されていました。

 笹野氏は、元禄・享保のころから書き継がれたと見られる『大頭舞之系図』に注目しました。そこでは幸若弥次郎の流れを受けた山本四郎左衛門が、後小松院 の北面武士であり、大頭大声であったところから大頭とし、その子の「京の町人」であった百足屋善兵衛が後柏原天皇の叡覧あって大いに繁盛、その弟子の大沢 次郎幸次が天正10年に筑後の戦国大名蒲池鎮運の下向と共に九州に移住し、蒲池家の没落と共に流浪する。となっています。基本的に一家相伝ではないが、天 明年間頃から大江の松尾一族が代々相伝して行く形となっているようです。麻原氏はこの『大頭舞之系図』において幸若弥次郎の孫弟子筋が「京町人」の者だら けあること、彼らの名が百足屋・笠屋といった屋号であることから、大頭流を担った人々は京の町衆であるとみています。これは同じく京の町衆による手猿楽の 盛況時期(天文・永録年間)とも重なることも傍証のひとつとして挙げています。

 さらに麻原氏によると、曲舞の新流であった越前幸若流が大頭流によって京にもたらされて、それに舞々の徒も加わり、古い曲舞が一掃されたと見、また、地 理上幸若流よりも有利に展開できるため禁中・公家との繋がりを強くして行き、幸若は戦国大名との働きを強めていったとします。また、大頭が斬新・改革的な 流派で、従来二人が基本で二人舞とも称されていた曲舞のありかたに三人舞という新形式を打ち出したとします(『言継卿記』天文十四年六月四日条)
 大沢次郎の九州下向についても麻原氏は、パトロンであった公家層の衰微と菊地氏の招きによる利害の一致の他、芸風に対する一座の内紛、つまり、女舞の導 入の是非があったとします。

 笹野氏は『京都御役所向太概覚書』『歌舞伎事始』「女舞之事」より、女舞の流れは寛文から元禄にかけて、柏木という大頭流の女舞が出てきて、笠屋流を下 に置き、その一部は歌舞伎に流れていったとします。また、麻原氏は、市村座の前身桐屋の家譜では先祖を幸若小八郎の弟子与大夫とし、伊豆の曲舞としてやっ て来たものの、男子に恵まれず、女舞に転進して成功を納めたということを紹介しています。

【その外の声聞師系の曲 舞】
○小犬党 
 曲舞での初見は『看聞御記』永享十年(1438)二月十六日。児舞をさせて、「其芸いたいけ也」といわしめています。声聞師の一座で代々小犬太夫を襲名 しており、童舞をウリにした曲舞をしていました。猿楽の世界にも手を出しましたが、二三時間のうちに五番もこなしていることから(『蔭涼軒日録』文正元年 二月六日条)その芸は聞き所・見せ所のさわりを演じていたもの考えられます。しかし、観世金春をはじめとした猿楽座から弾圧を受け、時には猿楽座の働きか けにより将軍から弾圧された事もあり(『康富記』宝徳三年(1451)二月二三日条)、麻原氏は文正年間以降は曲舞に戻ったとしています。

○河内の布施舞々
 『経覚私要抄』長禄四年(1460)正月二六日初見。興福寺とつながりのある舞々。千秋万歳も行っていました。

○美濃国人
 先に挙げた『康富記』応永三〇年(1423)十月一日条初見。単独の例としては『後法興院記』文正元年(1466)四月十六日の千本桟敷での公演。男の 露払いの跡、十四・五歳ぐらいの稚児の舞、次に女舞といった具合で行われたが、女が十九歳で大変美しく、四、五千人の見物客でごった返したと言います。

○摂津の優者
 『満済准后日記』応永三十四年五月十日条が初見。「摂州野瀬郷声聞」とあり、声聞師であった。男と稚児が舞を舞っています。この条に「児は水干大口立烏 帽子ニテ舞之。男ハ直垂大口也。」と服装が書かれているのは貴重でしょう。因みに曲目らしいものの初見の記事で演じているのがこの声聞師である。

○若狭「遠敷(小浜市)の幸福舞」
 室木氏が言及しています。舞々谷と呼ばれる場所に居住。土御門家に属して泰山府君を祭り、陰陽師の仕事をしていた。若狭一宮上社下社の社役を務めたこと は確かと。『蔭涼軒日録』延徳三年(1491)六月二〇日条には「武田彦次郎殿奉一献。若州九世舞用意之。」とあり、若狭武田氏との繋がりが深かったよう です。(後述)

○加賀の舞々
 これも金沢大学の室木氏が言及しています。瀬領(石川県石川郡)の村外れの藤田屋敷と呼ばれる竹やぶに居住していたそうです。

○近江の曲舞
 東寺百合文書にある文明十二年(1480)年八月一日付の東寺の評定引付に見えます。

○相模の曲舞
 室木氏により、権力との結びつきが強い団体として取り上げられました。

千秋万歳系の曲舞】
 千秋万歳(せんずまんざい・せんずばんぜい)とは正月子の日に行われる門付芸で予祝芸能のひとつでありました。三河万歳・尾張万歳のルーツになります。 主な担い手は北畠党などの声聞師であり、予祝の言葉を投げかけるのが、だんだんと今日見る大道芸のようなものや曲舞・猿楽を伴って来ました。そこから、曲 舞と千秋万歳とのつながりは、担い手である声聞師と併せて関連を否定することは出来ません。
 しかし、千秋万歳の担い手が普段の曲舞の担い手であるかというのには疑問点がある。北畠党が普段の曲舞を演じることは少なく、反対に幸若や大頭が千秋万 歳を演じることも少ないようです。恐らくはある時期を境に声聞師の間ですみわけが出来たのでしょう。

○大黒党
 『御湯殿の上の日記』文明十五年三月十二日条初見。稚児舞を得意とするようです。盛田嘉徳氏は『中世賎民と雑芸能の研究』(昭和四九年・雄山閣)で、御 所近くの声聞師村の住人で一月五日の千秋万歳・三毬打・重陽には定期で伺候しており、他の曲舞の世話をするほど相当力を持っていたとされるが正親町上皇の 命日がこの日に当たってしまい、公演が出来なくなってしまった後、退転してしまったようだとしています。

○北畠党
・『蔭涼軒日録』長享二年(1488)正月二日初見。千秋万歳の時に、稚児を連れて曲舞をさせている大黒の後、遅れて千秋万歳を行うことになっていた声聞 師集団。正月五日はかれらのテリトリーでした

【その他の担い手】
○元遊女の曲舞
 『実隆卿記』文明九年閏正月十二日から何度か見える。「入夜尼真禅〈旧遊女〉候簀子。密々於庇有曲舞。」とあり、元遊女がこっそりと曲舞を舞っていたこ とを示します。白拍子舞の系譜を引いているのでしょうか。曲舞は女舞の系譜を引くはずですが、女舞は曲舞の記録の前半を中心としています。幸若流は基本的 に男舞の流派であるから、幸若流が地位を形成するに従って女舞が衰えたことを示すのかもしれません。

○琵琶法師の曲舞
 『蔭涼軒日録』長享二年(1488)二月二一日にみえます。俊一・乗一が平曲とともに曲舞や小歌を演じていました。このほかにも白拍子舞と平曲を同一に こなす藤寿なる人物もおり(『看聞御記』永享八年正月十六日条)芸能者間で、芸能に関してあるていどのシェアリングがあったことをを想起させます。


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