幸若舞のルーツ
いつ、だれによって、発展していったのか。


○白拍子から曲舞へ

 「幸若舞」として知られるこの芸能は、もともとは曲舞(くせまい)、もしくは、舞々(まいまい)と呼ばれておりました。あとで詳述しますが、曲舞の有力 流派である「幸若家」が台頭してくると共に、「幸若舞」と呼ばれるようになりました。それでは、「曲舞」あるいは「舞々」と呼ばれた芸能とはいかなるもの だったのでしょう。まずは『日葡辞書』からみてみましょう。

《cuxemai》…ある物語を歌ったり舞ったりして生計を立てる者。◎また韻律をつけて作られたある種の物語であって、節を付けて歌うもの◎また日本の 演劇(能)において、普通のところよりも長く引き伸ばして謡うくだり。場面
《mai》…謡って舞うためのロマンセ(物語詩)のような昔の物語。
《maimai》…日本でmaiと呼ばれる、ロマンセ(物語詩)に似た或る物語を歌う人、又は調子を取ってそれを歌う人。

 ビジュアル化したものに、(ここでは画像を載せられませんが) 『七十一番職人歌合』があります。四十八番に「曲舞々」として描かれているのがそれです。その姿は烏帽子を被っていますが、垂髪で扇、鼓を持った姿が描か れ、女性、もしくは稚児のように見えます。どうやら、現存している幸若舞とは、ずいぶん違うイメージが出てきます。現存の幸若舞は、舞うことは舞います が、非常に型にはまったものであり、また、舞の魅力と言うより、語りの内容の方が重い、語る芸能ともいえましょうし、担い手も、現在は素襖着の男性であ り、その点でも大きく違ってきます。

 童子が曲舞を舞った記録としては、曲舞の記録としても古い、『看聞御記』応永二十三年(1416)三月二十五日条に、
 抑手クヽツ参、猿楽仕。小童一人天骨者也。リウゴヲ舞ス。又獅子ヲ舞、又ク セ舞ヲ舞。種々施芸能。禄物種々賜之。
 とあるところからも、首肯できます。この場合「手クヽツ」とあり、「手〜」、つまり「素人の傀儡子」の童子が天性の才能があり、さまざまな芸能で魅了す る中、曲舞が挙げられています。ちなみに冒頭に挙げた、『看聞御記』永享四年(1432)六月十五日条も、「抑於稲荷御旅所、此間くせ舞児有勧進。 於即成院去々年稚児云々」とあるように、稚児が演じていました。

 また先の『七十一番職人歌合』は、平家を語る琵琶法師に対して、曽我物語を語る聾女が対に配され、似た職同士で歌合 せが行われるのですが、「曲舞々」の相手は「白拍子」となっているのです。白拍子というと、平家物語の祇王や仏など、女性の芸能ということが想起されます ね。(平家では、その起源を鳥羽院の時代の女性としています。)また、『風姿花伝』には、このような記事が見えます。

 「舞・白拍子、又は物狂などの女がゝり、扇にてもあれ、かざしにてもあれ、いかにも/\弱々と、持ち定めずして持つべし。」

 舞、白拍子、そして、憑依の対象であった巫女が含まれるであろう物狂が同一線上に語られていることに注目しましょう。また、これらの芸職が女性の芸とし て認知されていたことも、ここから伺う事ができます。

 少し道から逸れますが、『日葡辞書』の「曲舞」の項において、曲舞が能楽の用語と化しているところに注目しましょう。白拍子や曲舞は能楽にも影響を与え ていたのです。能楽書の『申楽談儀』に「観阿節の上手なる。乙鶴がかりなり」と、おなじく『五音』に「乙鶴、此ノ流ヲ亡父ハ習道アリシナリ」とあるよう に、能楽の祖ともいうべき観阿弥は白拍子、または曲舞とみられる者たちから舞を習い、自らの芸を取り入れていました。麻原氏によると、この乙鶴は春日社の 巫女の名前であるとし、観阿弥が伊賀から大和に移ったときに興福寺配下の声聞師を介して曲舞を習得したのだということです。

○白拍子と曲舞の境目

 白拍子と曲舞が近似なる芸能というのであればその境はいかなる時期にあったのでしょう。麻原氏は、貞和四年(1348)に書かれた『峯相記』の中で文保 二年(1318)の蓑寺大堂建立縁起の法会で、白拍子が抜けて曲舞が初見されること、また、永仁五年(1297)の『普通唱導集』には白拍子がまだ記され ていることから、その間である十三世紀半ばは未だ白拍子の全盛で、曲舞の隆盛は十四世紀半ばころからだとしています。

 蓑寺ト申ハ正和二年六月ノ比、坂越ノ庄ヘ下ル旅人、ナニトナク雨ヤドリ、英賀ノ西田寺ニ立寄。タワレニ古仏二体負テ福井ノ庄山本村ニ蓑ヲ覆テ捨奉ル。薬 師観音両像也。其辺ノ人々、板ヲ上ニフキ崇メ奉ル。自然所求所望悉ク叶セ、祈所ムナシカラズ、ト披露セリ。利生掲焉ニ賞罰厳重ナル聞ヘ国土ニ謳歌有テ、上 下万民参詣ス。盲目ハ眼前ニ眼ヲ開キ、腰折ハ即時ニ立馳スル。万病皆癒福寿疑ナキ由シ、掌ヲサシテ分明也、トノヽシル。七八月ノ比ハ、当国ニ限ラズ、摂津 河内和泉紀伊ノ国、但馬丹波備前美作四国、辺土京田舎集ル間、二三里ガ内ハ諸方ノ道、更ニ通リヱズ。九 品念仏・管絃・連歌・田楽・猿楽・咒師・クセ舞ヒ・乞食・非人人数百人充満シ、灯明仏具昼夜経営市ヲ成ス。無程三間四面ノ大堂ヲ造立シ、文 保二年十一月八日、書写山長吏俊盛導師ニテ供養ヲ遂畢ヌ。(『峯相記』ーー播磨の霊地・霊験を集めた書)

 また、彼女は『五音』の記事に出てくる、曲舞は「賀歌の末流」とすることについて、この「賀歌」という白拍子が『教言卿記』『北山殿行幸記』『年中定例 記』などに祇園会に参加していることを指摘した後に、『五音』に「キオンエノ車ノ上クセマイコノ家ナリ」と記されたものと同一であるとし、時代遅れとなっ た白拍子が新たに開発した舞が曲舞であった可能性を見出しました。 彼女は、曲舞の要素が猿楽に導入されたとき、曲舞は洗練された猿楽の曲舞に圧倒され、評判の小歌がかりの曲舞節で演じなくてはならぬ羽目になり、現存のよ うな語 り物に転化していったのではないか。時期としては観阿弥・世阿弥の猿楽能の完成する応永・永享ごろではないかとも推察しています。

※(参考資料)
一、音曲に曲舞と只音曲との分目(を)知る事。曲舞と申は、一道より出でたるゆへに、只、音曲には黒白にはの変り目あり。然者、文字にも「曲」「舞」を添 えたり。惣名音曲と云に、「曲舞」と書きたるを以て、別曲ありとは知るべし。
 この変り目と云は、曲舞は拍子が体を持つ也。只謡は、声が体を持ちて、拍子をば用に添えたり。しかれば、曲舞は拍子が体を持ゆへに、「舞」と云文字を 「曲」に添へたり。さる程に、曲舞と言へり。立ちて謡ふ態也。風体より出づる音曲也。
 しかれば、昔は格別の事にて、曲舞は曲舞の当道にて、あまねく謡ふ事はなかりしを、近代、曲舞を和らげて、小歌節を交へて謡へば、ことに/\面白き也。 面白く聞ゆるゆゑに、当時はことさら、小曲舞のかゝり、第一のもてあそびとなれり。これは亡父、申楽の能に曲舞を謡ひ出したりしに(よりて)この曲、あま ねくもてあそびし也。白鬚の曲舞の曲、最初なり。去程に、曲舞がゝりの曲をば、大和音曲と申付たり。
 かゝる程に、曲舞節の硬きを和らげて、小歌節になりゆく所に、曲の道少(し)づゝ違ふことを、人不知。(曲舞)にも小歌の曲まじり、小歌にも曲舞がかり あり。しかれども、面白きこと肝要なれば、これを僻事とは申さぬなり。(さりながら)この分かれ目を知らざれば、道を理るべき導師は絶えたるになるべき 事、本意をそむけり。
 抑、曲舞・只音曲の分目と云は、曲舞は拍子を体に謡ふ曲なれば、文字を拍子が持つによりて、文字も句も移りも軽し。(世阿弥『音曲口伝』 応永二〇年識 語

○舞う芸能から語る芸能へ

 語る芸能と舞う芸能。どうやら、白拍子を祖とした曲舞は、十四から十五世紀にかけては、稚児や女性が「舞った」ものからでてきたようです。それでは、今 『舞の本』にあるような、「語り聞かせる」芸能としての性格が濃くなったのはいつ頃なのでしょうか。室木弥太郎氏は 、舞と語りに置き所が分化したのは一 五〇〇年前後であるとしています。語り物であれば、児舞・女舞という一時的な人気に頼らざるとも歳をとっていてもやれる。 『二水記』永正十七年(1520)九月十二日の曲舞について「近頃事 各拭感涙了」と舞を「聞く」とあるので、長編の語りをしたのであろうとしています。
 
 曲目が見えてくるのは、『鹿苑日録』明応八年(1499)二月二十九日条のことです。
「摂州優者両人来、多 田満仲並奥州佐藤兄弟事。恵三百銭二百扇。」
 現行の『満仲』『高舘』とおぼしきものが、演奏されています。

 しかし、川崎剛志氏は、「曲舞と幸若大夫」(『幸若舞曲研究』第七巻)で、『鹿苑日録』の記事をもって一五〇〇年がターニングポイントであると決定す るのは危険であるとします。なぜなら、『鹿苑日録』のこの項の執筆者、景徐周鱗はこれ以外に曲舞の曲目に関する記事を載せていないからと理由付けます。つ まり日記者 の性格を考えてみる場合、これをもって今日残るような舞曲が出始めた点であるとは言えないというのです。確実に曲舞の曲目を水準で捕らえることができるの は、 天文年間(1532〜)に入ってからということとします。

 天文年間あたりがと言う意味では、西脇哲夫氏の「幸若二第」(『幸若舞曲研究』巻 四所収)も重要な意見となるでしょう。室町物語的往来物である『東勝寺鼠物語』(天文六(1537))では、鼠の食いちぎった寺の中の手習い・学問の書の 中に舞曲の一群があるのに注目しているところ、 また、幸若詩章とのつながりを持つと思われる能「正尊」と幸若「堀川夜討」・能「武文」と幸若「新曲」で、その成立下限が、大永三 年(1523)であり、更に大永六年(1526)の奥書をもつ『神祇陰陽秘書抄』は幸若「日本記」の一部に関わっている。これらのことから、天文六年の段 階で七 〇点ものテキストが寺に蔵せられてもおかしくなく、このころには現行の曲目の素地ができていたとします。

 一方で、『自戒集』の曲舞の起源を説いた記事が真実性を持っているとすると、この、声聞師が琵琶法師のかわりに 源平の合戦を読んだのが起源という説が『自戒集』の成立年代、つまり寛正二年(1461)から応仁元年(1467)の間の頃にあったということになり、結 果、その頃には現在残っているような曲舞の詩章が成立していた事になります。

 総合すると、十六世紀前後に、「語り」としての素地ができてきたと言えるでしょう。


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